“モテないとわかっていて、あえてオタク趣味を選択した”私


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 私こそ、まさに“モテないとわかっていて、あえてオタク趣味を選択した”人の一人なのだが。


 私の学生時代、おたくになるという人生の選択が、たかが「非モテ」とか「きんもーっ☆」程度で済んでいたなら、どんなに楽な道だったろうと思う。当時はそんな「キモい変人」程度では決して済まされなかった。一言で言えば「おたく=犯罪者予備軍」という扱いだった。宮崎事件だの冬彦さんだの、“おたく=今すぐ精神病院に収容すべき、憎悪すべき社会の敵”という偏見に満ちた社会にあって、それは「友達との縁や家族との縁を切られることを、まず覚悟すべき」選択だった。私自身、家族との縁を切ることになりかけた事が一度や二度はあるし、それほどすさまじいものだった。


 それでも私は、“おたく=人間として終わってる”と一方的に決め付けて人を差別する態度こそ、人間として終わってると思っていた。
 加えて、「モテ=勝ち組、非モテ=負け組」という線引きで人を差別する考え自体、馬鹿馬鹿しいと思っていたし、「非モテ組の仲間だと思われていじめられたくないから、モテ組に加わったり、モテ組選民思想に同調する」なんて、私のプライドが許さなかった。
 こういう社会的風潮は、私にはどうしても許せなかったし、何とかしてそれを正したかった。私はおたくの肩を持つことにしよう、そして自分も早く知識を取り入れておたくの仲間入りしよう、と思うようになった。
 考えると私は子供の頃から理想主義者だったのかもしれない。今考えると、博愛とかアガペーとか呼ぶものを理想として追究していたのだろう。しかし、「汝の隣人を愛せよ」と日頃唱えている同じ人が、「でも、おたくは私の隣人ではない」と言わんばかりの行動を取っている現実をよく目の当たりにすることがあり、そのたびに何だか空しく感じさせられたものだった。


 そんな昔に比べると、今は何てましな時代になったのだろう、と、つくづく感じる。電車男には何遍頭を下げても足りないくらいだ。
 もっとも、人はモテて一人前、という考えは未だに健在なようで、彼女はいるのか、どんなタイプの娘が好きなのかと聞く人も時々いるのだが、「そんなのちっとも興味ねーよ」なんて答えて場を白けさせるのも何なので、返答に困る質問の一つだった。
 今では冗談半分に「働き者のメイドさんみたいな人がいいよね」などと答えると、相手もお約束を理解して「またあんな事言ってるよ」とばかりにウケてくれる、そんな時代になってきた。もちろん、そんな大和撫子は、かぐや姫の求めた宝ほどではないけど絶滅危惧種であり、きっと用意できまい。私はモテる事には未だにちっとも興味ないし、それを知ってて言うのだ。


 ここで付け加えておくなら、私は、身なりや行動に無頓着でいろと薦めているわけではない。それは社会生活において、ある程度重要であるし、見苦しかったり場の空気に合ってないものは避けるべきだろう。
 しかし、それは「異性にモテるため」というのが動機の全てであるべきだろうか。確かにモチベーションとしては強力だ。異性へのセックスアピールや同年輩の受けもある程度重要かもしれない。しかし私はそれが全てだとは思わないし、それだけで終わってはもったいない。“人生の先輩方”も含め、老若男女いろんな層の人と仲良くやっていけるのが理想だと思う。