日本では「信教の自由」は無い?

 皆さんは現在の日本で「婚姻の自由」が保証されてゐる事を御存知の事と思ひます。この「自由」を「国による強制からの自由」の意味として取り上げる人はあまり見ません。「親の決めた結婚に子供が黙つて従はなければならない」といふ昔よくあつた事例を取り上げて、今ではそれから自由になつた、と説明する人が多いやうに思ひます。


 一方、「信教の自由」については、現代の日本では「婚姻の自由」程には社会的に受け入れられてゐるとは思へません。
 「信教の自由とは、国が国民に特定の宗教を押し付けない事であり、民間人については適用外だ」
 「神道は宗教ではなく日本の伝統的な習慣に過ぎないし、葬式に見られる仏教的な慣習を参列者に求めるのも、特定の宗教の押し付けではなく、古来の伝統に過ぎない」
 こんな意見をよく耳にします。


 私はよく「宗教を選ぶ」といふ表現を使ふ事がありますが、この表現に反撥する人の多いこと多いこと。*1
 「宗教は『選ぶ』ものではない、生まれた時から『ある』ものだ」、とよく反論されます。
 こんな反論をする人は大抵、ただ親の宗教を受け継いだだけで、「宗教は自分で選ぶものではなくそこにあるもの」と思つてゐる、どこにでもゐる普通の仏教徒です。
 そんな人は、たとへば「キリスト教会に通ふの? 熱心で良い事だね」とキリスト教徒を褒めるかも知れません。しかし、その人を葬式に呼んで「お焼香しません、読経に加はりません」と平然と言はれた時に大いに揉めるだらう事は、容易に想像出来ます。


 私は最近思ひます。まさかみんな、日本でキリスト教に改宗した人は「神道や仏教の習慣を今まで通り続けながら、まるでクリスマスや結婚式だけキリスト教式でやる日本人と同じ様に、一寸したたしなみとして教会に行く」とか思つてゐるのではないか、と。
 違ふよ。全然違ふよ。神道も仏教もまるまる捨ててキリスト教に専念するんだよ。原則としては。
 「どうして仏教をやりながらキリスト教が出来ないの?」と怒るかも知れませんが、「たとひ親の宗教を捨てることにならうと、たとひ先祖代々受け継いだ宗教で、自分が墓を継がなくてはならないとしても、宗教の掛け持ち禁止」が原則で、申し訳無いけどそれだけは妥協出来ない、といふ人も少なからず居るものです。*2


 憲法の言ふ「信教の自由」は、「親から受け継いだ神道や仏教を捨ててキリスト教に改宗する」自由も含むと私自身は思ひますが、日本では、「親から受け継いだ神道や仏教を捨てる自由は無いが、それと掛け持ちでならキリスト教新興宗教など他の宗教をやる自由はある」みたいに思つてゐる人も多いのでは、と私は感じます。
 さて、「子供は親から受け継いだ宗教を捨てられない」のであれば、親が伝統的な神道や仏教を捨てた上で反社会的なカルト宗教を信奉してゐる場合はどうなるのでせう。その場合でも「宗教は選べない」のか、それとも「カルト宗教は宗教ではない」と言ふつもりなのか……。

*1:「現状維持」といふ「選択」も「選択」のうちだと私は思ふのですが……

*2:まあ、カトリックなど教派によつては「神道は宗教ではない」として大目に見るところもありますし、実際に神道や仏教の慣習をすべて捨てるとなると村八分になるので、泣く泣く妥協する人は多いと聞きます。教派によつて、個々の信者によつて、「神道や仏教にある習慣のうち、ここまでは容認出来るが、ここから先は妥協出来ない」の境界線は違ふと思ひます。