「窓ぎわのトットちゃん」の謎

「窓ぎわのトットちゃん」とは

 黒柳徹子の小学時代を綴つた自伝で、初版は1981年。
 「トットちゃん」とは黒柳徹子のあだ名。彼女の言葉を借りると「(トット助と呼ぶ)パパと、犬のロッキー以外は」この渾名(あだな)で呼んでゐたといふ。
 彼女は最初に入学した小学校で問題児扱ひされてゐた。教室の机の蓋(ふた)が珍しくて授業中何度もパタパタ開け閉めしたり、パタパタやつてゐないと思つたら、窓際でチンドン屋さんを待つてゐたり、日本の国旗を画用紙に描く授業では軍艦旗(旭日旗朝日新聞のマークに似たあれ)に黄色い房をクレヨンで描いて机に跡が残つてしまつたり、本人は好奇心旺盛なのだが先生からは迷惑がられてしまひ、たうとう小学1年にして退学させられてしまふ。しかし、ユニークな教育方針の「トモエ学園」に転校し、のびのびと小学生活を送るやうになつた。特に、校長先生の「君は、本当は、いい子なんだよ」といふ言葉は、これまで薄々と疎外感を感じてゐた彼女をいつも元気づけてくれる言葉であつた。
 ところが、そのユニークな校風のトモエ学園にも、戦争といふ暗い陰が迫つてきてゐた。親切だつた小使ひさんを含め、「トットちゃん」の周りの大人たちがどんどん戦地に行つてしまつたり、傷病兵の慰問、疎開、最後にはトモエの校舎もB29の空襲で焼けてしまふ。
 この本の出た時、ちやうど日本では校内暴力の嵐であり、ある学校では卒業式で警官が警備したといふ。いはゆる「タレント本」は一時の流行りですぐ売れなくなるといふのが普通だが、この本に限つては、そのやうな時勢にあつて教育問題を考へさせるやうな本だつたためか、ベストセラーとなり、小学校の教科書にも採用され、今でも老若男女に愛読されてゐる本である。
 また、今は亡き「いわさきちひろ」による水彩画も非常に効果的に使はれてゐる本である。この本が出版された時点で、「いわさきちひろ」はすでに亡くなつてゐたらしいが、既発表作品や未発表作品も交へて本を飾つてをり、あとがきをよく読まないと、「窓ぎわのトットちゃん」のための描きおろしかと思つてしまふほどである。
 残念ながら、この、「いわさきちひろ」の挿絵のために「表紙が女つぽい」と敬遠してゐた男性諸氏は結構ゐたらしい(文庫版あとがきより)。しかし、そんな男性も、家の者がどうしてもと勧めるので読んでみたら、本当にいい作品だつたといふ感想がほとんどだつたといふ。先入観にとらはれずに読んでみると、意外にも興味深い作品に遭遇する。こんなことは時々あるもの。

トットちゃん」には弟がゐた

 黒柳徹子の母である、黒柳朝は、「チョッちゃんが行くわよ」といふ自伝を出してゐる。この本は「チョッちゃん」といふ題名でNHKの朝のドラマにもなつたのを覚えてゐる人がゐるかもしれない。
 「窓ぎわのトットちゃん」とこの本を比較してみると、意外な事実に驚かされる。何と、「窓ぎわのトットちゃん」では一度も触れられてゐない、「トットちゃん」の弟(明兒)が「チョッちゃんが行くわよ」には出てくるのである。
 この弟は家族に非常にかはいがられてゐたのだが、ある日具合が悪くなつてしまふ。そして、「アイスクリームが食べたい」と言ふので、苦労してアイスクリームを探させて持つてこさせる。その子は病床でアイスクリームを食べ「ああ、おいしかった」と言ふのだが、ほどなくして死んでしまふ。こんな内容であつた。
 非常にかはいがつてゐた弟の急死は、黒柳一家に大きな衝撃を与へたに違ひない。黒柳徹子にとつてこれは、何十年経つても、「窓ぎわのトットちゃん」に書くのがつらいほどのものだつたのだらうか。
 なほ、「トットちゃん」には他にも弟(後にヴァイオリニストとなる紀明)、妹(後にバレリーナやエッセイストとなる眞理)もゐるさうである。この二人も、「窓ぎわのトットちゃん」には出てこない。

パパが軍歌を弾かなかつた理由

 トットパパ(黒柳守綱)はN響の楽団員で、ヴァイオリンを弾いてゐたらしい。戦時下で楽団の仕事が少なくなつてきた時、パパに、軍需工場で軍歌を弾く仕事の話が入つてくる。さうすると、「お砂糖とか、お米とか、ヨーカンなど」を、おみやげとしてもらへたといふ。
 これは願つてもない仕事だつたに違ひない。しかし、「窓ぎわのトットちゃん」の中で、トットパパはかう答へる。「……僕のヴァイオリンで、軍歌は、弾きたくない」
 さて、パパはなぜ、この願つてもない仕事を蹴つてまでも、ヴァイオリンで軍歌を弾きたくなかつたのだらうか。
 この質問を、「かわいそうな ぞう」とか「おかあさんの木」みたいな反戦国語教材で授業を受けてきた世代に質問するならば、恐らく、「トットパパは戦争が嫌ひで戦争に反対だつた。だから人殺しの音楽を弾きたくなかつたのだ」といふ答へが半分以上を占めるかもしれない。
 実は、「窓ぎわのトットちゃん」を初めて読んだ小学3年の時は私もさう思つてゐた。しかし、今は少し違ふ。理由はそんなに簡単な言葉で要約できるわけでもないと思ふ。
 もつとも、「チョッちゃんが行くわよ」によると、黒柳家はクリスチャン家族であり、戦争といふものを基本的に快くは思つてゐなかつたらしい。だから恐らく、兵隊に行つたのも赤紙が来たので仕方なく行つただけで、自分から進んで行つたわけではないのだらう。
 トットパパがなぜ軍歌を弾かなかつたのか、私たちは、ただ想像するのみしかない。トットパパは戦争が嫌ひだつたらうことは確かで、それが理由の一つだつたらうことは、想像に難くない。しかし、現代みたいな反戦運動から生まれたものではなくて、きつと人間として、またキリスト教精神としての博愛から生まれたものだつたらう。そして、「窓ぎわのトットちゃん」には「でも、それより以上に、パパには、自分の音楽が大切だった。」とあるやうに、ただ戦争が嫌ひだつたといふ理由だけでなく、芸術的理由もあつたのではなからうか。軍歌は、トットパパにとつて、他から言はれて弾く音楽であり、自分が納得して弾く音楽ではなかつたのだらう。また、戦場で死んでいくだらう兵隊たちのことを想像すると、戦争が嫌ひとかそれ以前に、やりきれない気持ちだつたのだらう。私はさう推測する。

黒柳邸の最寄駅

 実は、「窓ぎわのトットちゃん」には、場面としては何度も出てくるはずの、黒柳邸の最寄駅の名前が全然載つてゐない。自由が丘駅(当時は「自由ヶ丘駅」)だとか、他の駅の名前は出てくるのに、一番利用してゐるはずの出発駅の名前が全く出てこないといふのも、をかしな話である。そこで、本文中からその駅を推測してみようと思ふ。

 「自由が丘の駅で、大井町線から降りると、」(はじめての駅)……大井町線を使つてゐることは確実。

 「そう思ったら、もう、早く学校に着きたくなって、まだ、あと二つも駅があるのにドアのところに立って、自由が丘に電車が着いたら、すぐ出られるように、ヨーイ・ドンの恰好で待った。」(校歌)……家から二駅以上はあるのは確実。

 「そのとき電車は、トットちゃんの降りる駅の一つ前の大岡山につき、反対側のドアが開いた。」(とっても不思議!)……前後の文脈からすると、学校の帰り道は、自由が丘から大岡山方面に乗つてゐて、しかも大岡山で途中下車して目蒲線(現在の目黒線)に乗り換へることなく、そのまま乗り続けてゐる。といふことは……

 結論。黒柳邸の最寄駅は、大井町線(現在は東急の路線の一つ)の「北千束」駅である。ただし、大井町線の駅が今と同じであればといふ仮定の上での話だが……。

 なほ、「トットちゃん」が以前通つてゐた「赤松学園(赤松小学校)」は、現在も北千束駅のプラットフォームから見える、駅のすぐ近くにある学校である。学校の近くでかつての級友とすれ違ひながら、自分だけは大井町線に乗つて「トモエ学園」に行く「トットちゃん」は、どんな気持ちだつたのだらう、と想像すると、切ないものがある。

参考文献

「窓ぎわのトットちゃん」黒柳徹子 著、講談社 発行。
チョッちゃんが行くわよ」黒柳朝 著、主婦と生活社 発行。
「トモエ学園の仲間たち」野村健二 著、三修社 発行。
トットちゃんの先生 小林宗作抄伝」佐野和彦 著、話の特集 発行。
黒柳徹子トットちゃん)の実家はどこにあった?」https://katsuq.com/blog-entry-150.html

※この記事は「はなごよみ」ウェブサイトの内容整理に伴つて、こちらに移転させました。1999年初出、2003年、2019年改訂。