「かわいい」と「ユーモア」と「あいさつ」と

「かわいい」と言われること


 かつて私も「かわいい」論を「かわいいは、礼儀!」という題*1の記事として書いたことがありますが、今日もまた、この話題について書いてみようと思います。


 以前にも書いたように、「『かわいい』とは、目上の者が相手を下に見て言うような言葉だ」とか、ひどいと「可愛いという感情は、自分より下の無力な存在を支配したいという欲求の表れだ」と決め付けてしまう風潮があるかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか。
 前回は、「かわいい」と「あいさつ」の共通する部分について取り上げてみました。内容を軽くおさらいしておきましょう。

  • 挨拶だって、目上の人には「ございます」を付けなければいけない、といった、明らかに上下関係を意識した挨拶もありますが、だからといって、必ずしも歪んだ支配欲とは言えません。むしろ、上下関係を円滑にする潤滑油のような存在とも言えます。
  • 「挨拶」も「かわいい」も、相手にとって自分が無害な存在である事のアピールであり、相手に対する親愛の情の表れです。
  • もちろんどちらも、悪用する人は少なからずいます。しかし、正しい方法で使えば大いに役に立ちます。


 さて、今回は「かわいい」と深い関係のある要素である、「ユーモア」についても取り上げてみましょう。
 仔犬が自分のしっぽを追いかけ回したり、仔猫が毛糸玉を追いかけ回したりしている様子を見て、可愛い、微笑ましいと思う人は多いでしょう。人間は、無邪気で可愛い仕草というものを「ユーモラス」だと感じるものです。
 また、対象となる人物や動物の「幼さ」や「隙のあるところ」「アホな部分」から「ユーモア」が生まれる事は少なくありません。漫才を思い浮かべていただければ、すぐわかるでしょう。完璧な博学者で、質問に100%正しい答えを返すような人には、ボケ役は務まりません。逆に、いつも間違った答えしかしない人にも務まりません。ツッコミ役の話をほとんど理解してるようでいて、ほんの一部だけ「ズレているところ」があると、そのギャップが面白いのです。
 アニメおたくのよく言う「萌え要素」にも、しばしばこの種のユーモアが見られます。等身を低くして幼く描いた「ちびキャラ」を「可愛い」という人が少なくないのは、無邪気なコロコロしたキャラクターに対し、ちょうど小動物を目にした時のように、思わず親愛の情を抱いてしまうからです。そんなキャラクターは、コミカルな仕草をするのがお決まりですが、それを可愛いと言わず何と言いましょう。*2
 ちょうど漫才と同じように、あるキャラクターのアホな部分がユーモラスな「萌え」というものもあります。たとえば、いつも何かとドジを踏んでしまう「ドジッ娘」キャラクターは、多くの作品に登場します。
 キャラクターの「隙」や「ギャップ」から生まれるユーモアといえば、「ツンデレ」は外せません。一見、相手に冷たいように見えて、実はさみしがり屋さんだったり、相手の事を想っていたりする、そんな隙を言動からチラッとのぞかせてしまう、そんなギャップにユーモアを感じるからこそ、ツンデレキャラに「可愛らしさ」を感じる人がいるのでしょう。


 なるほど、これらは「幼さ」「隙」「愚かさ」といった、ある意味「人間の弱い部分」から生まれるユーモアかもしれません。「それこそ、自分より下の無力な存在を支配したいという欲求の表れだ」? ちょっと、それは何かのギャグですか?
 そんな事をおっしゃる方に一つ質問します。あなたは、仕事でも私生活でも一分の隙も見せず100%完全にこなすような完璧人間とお友達になりたいですか。きっと、そういう人は少ないでしょう。ガードが堅すぎて、いつも「よそゆきの顔」をしているような人とは近付き難いと思うのが普通です。むしろ、適度に隙を見せてくれる人の方が親しみが湧くものです。そして、これは必ずしも「支配―被支配」の関係じゃないでしょう。場合によっては、その「隙を見せる」事が「相手を信頼している証拠」だったりするわけです。
 それは正しい方法で用いられるなら、人間関係を円滑にする要素となり、あるいは架空の物語であってもその登場人物に余計に親しみを持たせる要素となるに違いありません。時と場合をわきまえつつも、うまく活用していきましょう。

*1:このタイトルは、記事中にも説明されている通り、「かわいいは、正義!」というキャッチフレーズの、ちょっと苦しいもじりです。また、ここで言う「かわいい」とは、容姿の事だけを言っているのではありません。

*2:また、既に成長してしまっている大人に似せて描くのではなく、「これから成長しつつある」子供以下の等身に似せて描く事で、「登場人物は心の成長しつつある人間である事を象徴的に描く」という効果もあります。