あなたは「いじめを容認する友」と「孤立」のどちらを選びますか

 福岡県筑前町で、中学2年の男子生徒がいじめを苦に自殺したニュースは皆さんご存じでしょう。
 この事件をきっかけに、世間はにわかに「いじめ、良くない!」とか「いじめを煽っていた教師は許すべきではない」と安易に言うようになりましたが、はっきり言います。


日和見主義者が今更何を言う。死んでからでは遅いんだよ。それに、どうせ半年もすれば忘れるんだろう。


 もっと穏やかな表現をするなら「あなたは、その生徒と同じクラスにいたなら、いじめを止める努力をしていましたか」、と。


 傍観しているだけの日和見主義者は、主張するだけなら何だって言えます。
 なるほど、「あの男子生徒をいじめて自殺に追い込んだ教師や生徒は許すべきではない」、立派な意見です。でも、本気で「いじめは良くない」と思っているのですか。それとも「いじめは良くない」って、ただ言いたいだけなのと違いますか。


 私が学校に通っていた時代、いじめに荷担しないという事は、孤立を意味していました。ある男子が、内気ないじめられっ子の女子に対するいじめに加わらないという態度が、どんな評価に結び付くのか*1、知っていますか。また、自分は誰とも平均的に親しくしていたくても、「一般人の友人か、おたくの友人か」という二者択一*2を迫られるかもしれません。
 もっとも、私も「周囲から孤立してでもいじめを容認しない」努力は、ある程度はしたものの、大抵無駄に終わったし、大体、完全に「いじめを容認しない」という正義を貫けたかというと、嘘になるでしょう。「どうせ無駄な努力だ」とあきらめて見て見ぬふりの事も多かったし、自分の弱さや周囲の圧力ゆえの失敗が何度あったかしれません。それほど、「いじめを容認しない」を実行に移す事が、いかに大変なことなのか、本当に身をもって経験しました。
 今「いじめを容認しない」と大得意になって言っている私でさえ、あの自殺した男子生徒と同じクラスにいて、同じ状況に遭遇していたとしたら、その信念を貫き通せたかどうか、正直言って不安です。まるで最後の晩に主イエスとの関係を三度否認した使徒ペテロのように、いざその場にいたらチキンになっていたかもしれません。


 しかし、現実の努力が難しいからといって、この理想を抛棄するのは、もっと良くないことです。世間からしばしば白眼視され、いじめられているのは、小・中学生や高校生だけではありません。「おたく」は「キモい」と言われてあからさまに避けられ、「フリーター」は「税金泥棒」扱い、「独身者」は「人格欠陥者」や「年金泥棒」扱いされて非難されています。私はこのブログ上で、一部の政治家や自称識者など“偉い人々”“人の模範となるべき人々”とされている者たちでさえもが、一方で「いじめは良くない」と言っていながら、他方で堂々と行っている、一見もっともらしい理由の付いたこの種のいじめに関しても問題提起をし続け、またこの種のいじめに荷担しないことを、たとえ世間から孤立しても引き続き実践していきたいものです。


あなたは、社会から孤立する覚悟をもって「いじめ、良くない」と言えますか。

*1:当然のように、「お前はあいつの事が好きなんだろう」「結婚するんだろう」とからかわれます。

*2:「そいつらと付き合うの、お願いだから止めてくれよ。おたくと付き合ってる奴の仲間だって人に見られるの、俺、嫌だからね!」という言葉を何度聞いたことでしょう。