年金=ねずみ講ではない

 「ねずみ講」という言葉をご存知でしょうか。たまに電子メールでこの種の勧誘が来ることがあるかもしれません。親会員が二人以上の子会員を勧誘し、子会員、孫会員らの払った会費の何割かが親会員に払い戻されるというものです。計算上は、自分の下の子会員、孫会員が多ければ多いほど沢山の金額が払い戻されるとされており、子会員を勧誘した後は、まるで権利収入のように何もしなくても大金が転がり込んで来るかのように宣伝されています。
 しかし、そんなに甘い話があるはずがありません。人口には限りがあるから、子会員の子会員の子会員の……と下の方の会員になっていくほど、新規会員を見付けるのが難しくなってきます。子会員がいないと自分に金が入って来ず、ただ会費を払うだけの払い損です。結局、一番上の親に近いたった数パーセントの会員だけ甘い汁を吸って、下の方の会員は損をすることになってしまう、悪質なシステムであり、現在法律で禁止されています。

ねずみ講にあって年金にないもの

 年金制度を「ねずみ講」だと揶揄する人がいます。しかし、それは本当に正しいでしょうか。
 結論から言うと、年金はねずみ講とは全く別物です。なぜなら、年金制度は、ねずみ講を特徴付ける幾つかの要素が欠けているからです。


 まず、ねずみ講の会員には、「子会員を作る義務」があります。子会員を作ってはじめて配当を受ける事ができるのです。一方、年金を受け取るのに必要なのは、一定の期間年金保険料を納める事であり、子会員を作る義務はありません。
 次に、ねずみ講の配当金は、子会員や孫会員の数が多ければ多いほど増えますが、年金はそもそも子会員という概念自体がありませんし、子や孫の数で金額が増えるということはありません。
 また、ねずみ講は(建前としては)全会員が掛金を「払う人」と配当金を「受け取る人」の両方の立場ですが、年金は「払う人」「受け取る人」がはっきり分かれています。そして、今払っている人が、今受け取る人を支える、という「世代間相互扶助」のシステムになっています。

ねずみ講の目的と年金の目的

 どうしてこのような違いがあるのでしょうか。それは、ねずみ講と年金とでは、目的そのものが全く違うからです。
 ねずみ講とは、「少ない掛金で多くの配当を得る」事を大義名分として、子会員や孫会員を食い物にして一攫千金を狙うことを目的としています。たとえば一万円の掛金で、後で一万円しか戻って来ないのでは意味がありません。一万円から百万円とか一千万円とかに化ける(という取らぬ狸の皮算用をする)からこそ、ある人々はねずみ講に夢中になるし、少しでも配当を増やすために子や孫の数を増やそうとするのです。
 一方、年金は、一攫千金のためではなく、老後の生活を支えるためのものです。自分が払った金額を甚だしく超える金額が返ってくることはありません。この点だけ見るならば、「積立貯金」に似ているように思えるのですが、これとも全く同じではありません。相互扶助という点では「無尽」とか「頼母子講」に似ている部分もありますが、このシステムともまた違います。他のシステムで完全に喩えることの難しい、独特のシステムと言えます。

少子化対策こそ「ねずみ講」だ

 世の中には、国民年金保険料を納める事は「あんなのはねずみ講と同じで、払い損だ」と言うくせに、少子化問題については「日本はもっと子供の数を増やさないといけない」とか「独身者や子供のいない夫婦には『独身税』『子無し税』をかけるべきだ」「独身で子供を作らなかったくせに年金だけは後の世代からちゃっかりもらおうとするのはずうずうしい」などと主張する人がいます。


 しかし、「老人を支える人口が減って困るなら、子供を増やせばよい」などというのは、ねずみ講と同じ発想であり、サルでも思い付く安易な発想です。それだけのためにどんどん人口を増やす事を奨励するのは、はっきり言います。問題の先送りです。借金があるから国債を発行しよう、というのと同じです。
 その子供も、いつまでも子供ではありません。いつか老人になります。そうしたら今度は誰が彼らを支えるのですか。そしてまたその子供を支えるのは……。
 そうすると今度は「人口爆弾」という別の問題が頭上に突き付けられることになり、そして地球の人口はいつかパンクする事はわかりきっています。そこまでいかなくとも、先進国の文化的生活を送っているゼイタク日本人が、狭い日本国土でたくさん暮らすというだけでも、石油をはじめ地球資源の大食らいなのに、まだ増やすというのですか。「貧乏人の子沢山」という言葉があるように、かえって日本が貧乏になる危険性もあります。
 いつか、発想を転換させなければなりません。国債を発行すれば借金が消えるわけでないのと同じで、子供を増やせば少子高齢化問題が根本的に解決するわけではなく、むしろもっと泥沼にはまります。

「子供を作らなかった人は年金を受け取るな」の間違い

 子供を作らなかった人は年金を受け取るな、の類の発言については、これは一見正論のようでいて、実際には問題があります。
 まず、不妊症などどうしても子供のできなかった人に大変失礼な発言です。それに加え、憲法に保障されている婚姻の自由や、既婚者の場合は家族計画の自由を認めようとしない、心の狭い考えだと言わざるを得ません。


 次に、年金受給条件は、飽くまでも年金保険料を一定期間納めたかどうかが問題であり、子供がいるいないは全く関係ありません。元々そういうシステムとして作られたのです。
 もしスーパーに行った時に「農業経験者以外には野菜を売りません」と言われたらどう思うでしょうか。「売って欲しかったら、お宅の娘さんを農家に嫁がせるとか、農家に何か貢献してからにしてくれ」と言われたらどう感じるでしょうか。確かに、農業の後継者不足は深刻な問題です。しかし、それと野菜を買うのとは別問題です。スーパーは、農家でなくてもお金を出せば野菜が買えるというシステムであり、自分や自分の子供が農業の後継者不足に貢献していないからといって、野菜を買えなくなるなんて決まりは、どこにもありません。年金うんぬんも同じことです。

少子化を口実にした独身者いじめの代わりに、独身者に協力を仰げ

 誰もが田んぼと畑を持って、米や野菜を作れるわけではありません。だからこそ、いろいろ違う得意分野を持つ人々が集まって社会を作り、協力し合うのです。
 少子化問題についてもそうです。誰もが子供を産んで育てることができるわけではありません。だからといって「『独身税』や『子無し税』を掛けよう」とか「結婚して子供を産まないのは社会に貢献しようとしない非国民」であるかのように言うのは、先の喩えの「農業経験者以外には野菜を売りません」と同じネガティブな発想です。
 独身の人、既婚者、子供のいる人、いない人、いろいろな立場の人が集まって協力し合うのが社会です。結婚して子供のいる人が「いい年して独身で子供もいないなんて、社会に貢献しない役立たずだ」などと他人を非難するような姿は、あんまり健全とは言えません。むしろ、子供のいない人にも出来る仕事を見付ける事、つまり、「子供のいる人に何らかの分野で直接・間接に協力して負担を軽くすること」を、子供のいない人に呼びかける方が、どんなに健全で積極的な見方でしょうか。*1


 年金はねずみ講ではありません。しかし欠陥があるのは確かです。少子高齢化問題も簡単に解決する問題ではありません。単純に子供の数を増やすだけの解決策は論外として、年金制度や雇用制度を含め、社会制度をあちこち改革する必要があり、それでも完璧な解決策は、なかなか見つからないものです。
 「少子化をダシにしたフェミニズムの布教」とか「少子化をダシにした独身者いじめ」の類は、国家予算をいたずらに食いつぶしたり、独身者の反撥を買うだけで、全く無意味で、何も良い成果を生み出しません。このような罠に陥ることなく、少子化の現実を受け入れつつも、その痛みを和らげる方法を模索するのが正攻法なのかもしれません。

*1:育児支援税』という名前でオブラートに包むことすらせず、『独身税』『子無し税』などと露骨な表現をあえて使って、独身や子供のいない事に罰を与えるべきだと恥ずかしげもなく主張する事自体、独身者や子供のいない夫婦に対するあからさまな悪意を感じます。