性同一性障害?児童虐待の被害者?

 兵庫県のある男の子が、学校で「女子」として受け入れられたというニュースが最近あった。
 “人権感覚に鋭い”お方の中には、このような風潮を「性同一性障害に対する差別が改善されつつある証拠」だとして歓迎している人も多いようだが、果たしてどうだろう。
 私にとって、むしろ心配な事が一つある。「甘ったれるな、男は男らしく育てるべきだ」などという古い考えに基づくものではない。その男の子の「自分は女の子ではないか」という思いは、どこまで本当なのだろう。リボンの騎士やオスカルの男性版よろしく、女親に「女の子」としての子供時代を送らされてきたゆえの刷り込みだとしたら、どうだろう。将来その子自身の「ジェンダー認識」が変わって「やっぱり自分は男だ」と気付くなら、それまでの子供時代はどうなるんだろう。

報道から感じる疑問点

性同一性障害を受け入れ 小2男児、女児として通学 播磨地域

 播磨地域の小学校二年の男児(7つ)が、心と体の性が一致しない「性同一性障害GID)」と診断され、女児として学校生活を送っていることが十七日、分かった。教育委員会が保護者側の意向を受け入れ、現場の教職員には事情を説明したという。GID学会(神戸市、理事長=大島俊之・神戸学院大学法科大学院教授)によると、低学年の児童がこうした形で受け入れられるのは全国的に極めて珍しく、思春期の「第二次性徴」を控える年齢であることからも、今後の対応が注目されそうだ。

 保護者や関係者によると、男児は一歳のころからスカートやぬいぐるみが大好きだった。母親は「幼い子の興味の範囲内」と思っていたが、五歳のとき、兄と同じ少年野球教室に入れられることをかたくなに拒絶。ほとんど食事を取らなくなる日が続いたという。

 このため、母親が自宅近くの病院に相談したところ、「男女と区別せず、子どもが望むように育ててあげては」とアドバイスされた。小学校入学を控えた昨年一月、祖母が教育関係者に「女児で受け入れてもらえないか」と相談した。大阪の病院で専門的検査を行い、GIDとする診断書を学校に提出。教育委員会や学校側と面談した結果、女児としての異例の受け入れが認められた。

 男児の名前は、どちらの性でも通用するもので、入学後は出席簿のほか、トイレや身体測定も女児扱い。水泳には女児の水着で参加し、他学年と一緒になる夏休みのプールは自粛した。今年四月、進級してクラスメートや担任が替わったが、特に混乱は起きていないという。

 教育委員会は「医師が『本人が生活しやすいようにしていくことが基本』としたことが決め手となった」と説明。「もし今後、体の性に戻ることがあったとしても対応できるよう態勢を整えたい」「医師の意見に耳を傾けながら、子どもの成長を温かく見守っていきたい」と話している。

 男女ごとの特徴が顕著になる第二次性徴を迎えたとき、体が男性化していく男児を「同級生やその親がどこまで理解できるかが課題」と専門家は言う。

 母親は「できれば普通の女の子として接してほしい」と話している。

(太字は日記筆者[押井徳馬]による)


 「これは男の子の希望ではなく、ひょっとしたら母親のエゴが原因ではないか?」つまり「実は、この男の子が女の子になることを望んだのではなくて、母親や祖母がこの男の子を女の子として育てたかっただけじゃないか?」という疑問が、当然生まれてくる。
 まず、一歳の頃からスカートが好きだったという件。ズボンが好きだのスカートが好きだのという性別意識が一歳で芽生えるというのは、あまりにも早過ぎではないかと思う。仮に、本当にスカートが好きだったとしても、それが「女の子の服だから」という意識は、さすがに一歳では持ってないはずだ。
 それから、この子に姉妹がいるという話は報道には出てこない。もし姉妹がいないとしたら、この子のためのスカートをわざわざ買ったか縫ったかした(男の子と知っててスカートを譲ってあげる奇特な母親は、まずいないだろう)ことになる。
 私も頭がガチガチに固い人間じゃない。乳幼児の男の子にスカートをはかせてやることの全てが悪いとは言わない。たまたまはかせてやったら可愛かったので「まあ太郎ちゃん可愛いわねぇ」と言って喜んだり、写真を撮ったり、そんな母親も結構いるだろう*1。スカートとまでいかなくとも、小学一年生のお姉ちゃんの赤いランドセルを弟がしょってみる、なんて事も結構あるだろう。
 しかし、「一度や二度、たまにそういう事がある」のと「それが日常化する」のとでは意味が違う(特に、女装を幼稚園や学校といった集団生活の場に持ち込むと、周りの子供との軋轢を生むことになり得るし、それが元で本人に余計な不安を抱かせたり傷つけたりする原因にもなりかねない)。一歳の息子のためにスカートを買うか縫うかまでしてわざわざ用意する、こりゃ、ある意味マニアだ。
 物心付くか付かないかの年齢のうちに、スカートをはいてる息子を母親が「かわいいねぇ、かわいいねぇ」っていつも可愛がってやると、息子は、スカートをはくと母親に可愛がってもらえると思うかもしれない。乳児期にそうやって刷り込まれると、それが何年も続く可能性は十分考えられる。
 それに加えて、男女共通の名前を付けていた件。本当にたまたまそうなったのかもしれないが、他の証拠と重ね合わせていくなら、実は母親こそ、この子を女の子として育てたかったのではないか、という疑いもぬぐい切れない。
 小学二年生だと、まだまだ判断能力が未熟である。もし仮に、娘が欲しかったというだけの理由で、いたいけな子供の気持ちをもてあそんで、自分は女の子だとその子をマインドコントロールしていたとしたなら、それは悪質な児童虐待である。確かに本人は表面的には同意しているばかりでなく、女の子として扱って欲しいと言っている。しかし、たとえ幼い本人を丸め込んで、幼い本人の同意が得られていたとしても、性犯罪は性犯罪であるのと同じである。そうでないことを願いたい。

ジェンダーとセックスを混同する「ジェンダーフリー」論者

 加えて私が疑問に思うのが、いわゆる“進歩的な人々”の間で、これを理解が広まった」と手放しで歓迎する風潮があることだ。
 私は基本的には「ジェンダーフリー」の意見には同意しないが、しかし「ジェンダーフリー」を主張するなら、むしろこの問題について慎重であるべきだと思うのは私だけだろうか。
 まず、前項で挙げた「母親による刷り込み」が今のところそうかどうかは不明であるが、はっきりしないうちは、慎重にしておかないと、児童虐待を肯定することになりかねない。
 次に、「ジェンダーフリー」とは、トイレや身体測定や更衣室まで男女一緒にせよという意味ではなく、むしろ一緒にされては迷惑なはずだ。このように女の子として学校生活を送る男の子は、女子トイレや女子更衣室を使い、身体測定も女子と一緒かもしれないが、それに関してはどうなのだろう。そこらへんも含め、問題は山積みだ。手放しで賛成するのはちょっと危険ではないかと思う。
 それに、この家族は、ぬいぐるみは女の子のもの、野球は男の子のもの、バレエは女の子のもの、という意識が見え隠れしているように感じる。こういう性別による区別こそ、「ジェンダーフリー」が止めさせようとしているものではないだろうか。これを非難してないのも、どうもおかしい。

「赤い色やぬいぐるみが好きな男の子」でもええねん

 幼児や小学生のうちは、心も未熟であるし、自らの性別に関する意識も、まだまだ不安定な事があるものだ。成長するにつれて、「自分は男なのだ」と思えるように変化するかもしれない。私が一番心配なのが、この男の子がある日突然「やっぱり自分は男なのだ」という意識に目覚めてしまった時、自分のこれまでの“少女時代”をどう思うのだろう、という事だ。自分が納得した上での“少女時代”だったのならいいだろう。しかし、もし「あの時は親にすっかり丸め込まれていた」と思うようになったら、心に取り返しの付かない傷を負う事になるだろう。
 「自分は男らしい性格じゃないし、男として恥ずかしい」と思っていて、「自分はもしかして女なのではないか。肉体的にも女になればすべて丸く収まる」などと考える男の子もいるだろう。私自身、そう思った事が何度かある。しかしこれは単なる子供染みた現実逃避である事が往々にしてあるものであるし、ましてや、それを安易な気持ちで実行に移すと、むしろ問題が大きくなりかねない。
 自分の性別に対する違和感を異性装や手術で“直す”というのは、飽くまでも対症療法に過ぎないし、そればかりが「治療法」ともてはやされるのも、どうも納得いかない。心と体の性が一致しない時、心の方で調整するという解決策もあるはずであるし、そちらで解決できるならその方が最善だ(とは言え、どんな場合でも心の方で調整できると考えるのは大間違いである。もしかしたら、この方法が特に有効なのは、一見性同一性障害のように見えて、実際にはそうではなかったというケースかもしれない。2006/08/08補足)。もちろん、こればっかりは周囲の人間がどうこう言ってすぐに直るような即効薬ではない。時間が解決してくれるのを気長に待つしかない。
 一つ思うのは、「男らしさ」「女らしさ」とは飽くまでも平均値であって、個人差があって当然だということを子供達に教えるなら、「自分は男らしくない性格だし、本当は女なのではないか」(あるいは逆のパターン)の子供達も安心し、自尊心を持てるようになるのではないかと思う。
 「赤い色が好きな男の子」でもええねん。「ぬいぐるみが好きな男の子」でもええねん。「プリキュアふたご姫が好きな男の子」でもええねん。「スポーツより読書が好きな男の子」でもええねん。「取っ組み合いの喧嘩が嫌いな男の子」でもええねん。伝統的な考えでいけば「男らしくない」かもしれない。しかし、スカートをはくとか女子トイレを使うとかならまだ議論の余地があるだろうが、それくらいの些細な問題ならおおらかに見守ってやれないものだろうか。だけど身体的には男の子なんだ、と、自らの性別に自信が持てるようになるかもしれない。

参考資料

 私も「幼い頃の性別意識」を題材にした短編作品をかつて作ったことがあるので、紹介しておく。これはフィクションだが、決してゼロから物語を作ったわけではなく、私の幼い頃の経験を参考にした部分が少なからずある。


僕の赤いランドセル
“男は泣くな!”と叱られて

*1:動機は違うものの、かつての日本にも、大病をした男の子を数年の間女の子として育てると病気をしなくなるという迷信が一部にあり、幼児期に女の子の服を着たり女の子と遊んだりして過ごしたという経験を持つ男性もいたそうな。そして小学校に上がるとその子が男の子になっててビックリしたとか何とか。「三丁目の夕日」という漫画に載っていたことでご存知の方もいるだろう。この男の子も幼い頃病気がちだったという事は、ひょっとしてそういう願掛けも……?