「リストカットする勇気があるなら」という勘違い

 皆さんの中に、肌がかゆくも何ともないのに、わざわざ体のあちこちを思いっきり爪で引っ掻いたり、痕がつくほどつねったりする人がいるだろうか。そういう人はほとんどいないと思う。
 ところが、そんな人でも、腕や脚が蚊に刺されると、そこを思いっきり掻きむしったり、つねったりして、刺されたかゆみを紛らわそうと必死になる人も多いだろう。
 このように、「別の痛みで、他の痛みを紛らわす」という方法がある。頭が痛い時にコメカミを押してみるのも、同じように苦しい気持ちを紛らわせるための手段である。


 「リストカットする勇気があるくらいなら、何だってできる。その勇気を積極的な方向に向けて、ちゃんと現実に立ち向かうべきだ」などと偉そうに講釈を垂れる人がいる。人の気持ちを知ったかぶりして偉そうな事を言いやがって、こういうのを「小さな親切、大きなお世話」というものだ。
 私自身はリストカットした事は一度もないとは言え、島倉千代子の歌ではないけど、まあ人生いろいろという事で、こんな人は、ある意味うらやましい。きっと「いっそ死んで楽になりたい」などと本気で考えてしまうほどつらい経験をした事が、世の中に生まれてから今に至るまで、ただの一度も無い、本当に幸せ者のお坊ちゃん・お嬢ちゃんであるに違いないだろうから。そうでないとしたら、そんな過去の経験をキレイサッパリ忘れてしまったのだろう。


 大体、リストカットが勇気なものか。むしろ逆だ。現実逃避だ。人生航路が常に順風満帆の幸せ者にはわからないだろうが、こういう人にとっては、生きて「現実に立ち向かう」方が、死ぬ事の何百倍も勇気が要る。たとえて言うなら、尋常ではない苦しみに悶え苦しむ末期癌患者が「早く俺をひと思いに殺してくれ」と叫ぶ事があるのは、その苦しみによって死ぬ勇気が出たからとでも言うのか。笑わせるんじゃない。それと同じで、人生の苦しみに直面して死にたいと思うのは、勇気ではなくて、死の恐ろしさなど到底比較にならないほど恐い現実から逃れるための「安楽死」だ。だから、楽な方の「死」を考え続けてしまうのだ。
 そういう人にとって、リストカットの痛みとは、「別の痛みで、他の痛みを紛らわす」こと、ちょうど、蚊に刺された人が、刺された箇所を思いっきり掻きむしる事と言えるだろう。


 蚊に刺された人に「掻きむしるな、そんな痛いことをわざとするくらいなら、その努力を、痛みを耐えることに向けろ」と口を酸っぱくして言ったところで、たとえ親切心が動機であっても、全く見当違いの助言であるから、きっと掻きむしるのをやめられないだろう。同じように、「リストカットする勇気があるなら、何だってできるんだから」と言ってやめるような話なら、「それ何て青春ドラマ?」と言いたいところだ。青春ドラマやスポ根漫画じゃあるまいし、体の痛みも、心の痛みも、根性とか精神論だけでは乗り切れない場合がある事を、我々は理解すべきだろう。時には傷口に付ける薬が必要だ。文字通りの薬にしろ比喩的な薬にしろ。