健全系作品へのこだわりと、時々感じるむなしさ

 秋葉原のアニメショップで、夏と冬に開かれるコミックマーケット(コミケ)で、買う前にそれが健全系作品かどうか必ずチェックすることが半ば習慣化して当たり前のようになっている自分にふと気付く事がある。

 しかし、時々、そんな自分をむなしく感じる事がある。そんな孤独な努力をしたところで、どうせ世間一般はおたく文化に理解を示すはずがないし、結局そんな努力もむなしく、“いい年した男がそういう漫画なんかに熱を上げるのは、決まってヒロインへの歪んだ劣情がある”“健全系作品もあるなんて言うのはそれを隠蔽するための言い訳に過ぎない”などと紋切り型に決め付けられるくらいが関の山だろう。(一方でエロ作品擁護派からは“これは芸術なんだ、それを猥褻と思うのはお前の心が歪んでいる証拠じゃないか”“狂信的な潔癖主義者”と決め付けられることがあるかもしれない。板挟みである。)

 でもそんな主張をする人であったとしても、もし自分自身がインターネットを始めようとして家族や知人に「資料探しやメールに役立つっていうのは大義名分で、いかがわしいホームページが一番の目当てなんだろう」と決め付けられて反対されたら、どう思うだろう。レンタルビデオ屋に行こうとして「信じられない。ああいう店は昔からあるけど、いかがわしいビデオだらけの店だろう。そんなのを借りようとするのかね」と反対されたら、カラオケボックスに行こうとして「未成年者の飲酒に喫煙に薬物濫用に不純異性交遊のはびこる不健全な場所だから、たとえ信頼できるクラスメートだと思っても絶対に行ってはいけない」と言われたら、どう思うだろう。(※極端な事例のように思えるが、私にとっては別に極端な話ではない。私の周囲にはこういう厳格な家庭もたまに見かける)

 確かに日本のおたく文化のうち、漫画やアニメやゲームはいかがわしい作品も少なからずあるのは確かである。それは、レンタルビデオ屋の一角にいかがわしい作品のコーナーがあるようなものである。しかし、だからといって、漫画やアニメやゲームのマニアだからという理由で「いかがわしい作品が目当てなのだ」と一方的に決め付けるのは、レンタルビデオショップに入った男性を「あいつはいかがわしいビデオを借りたに100%決まっている」と決め付けるのと同じくらい失礼なことである。

 この喩えをさらに続けるなら、レンタルビデオと言えばいかがわしい雰囲気の店が多かった昭和50年代は過去のものとなり、今では女性や家族連れにも入りやすい店となり、客層の裾野(すその)も広がった。同じように、おたく文化についても、健全系作品を安心して楽しみたいというファン層も増えて、裾野が広がって欲しいと私個人は思うし、だからこそ健全系同人作家を応援しているのだが、今時あまり流行らない意見なのかもしれないと思うと、やはりむなしく感じることがある。