延命処置考・葬式考

 「延命処置」と聞くと、「回復の見込みのほとんどない脳死状態の人間を、点滴と人工呼吸器で何日も無理矢理生き延びさせる」という印象を持っている人が多い。私もかつてそのような考えを抱いていた。「そんなことをするなんて可哀想だ。回復の見込みがないなら、その場で人工呼吸器も取り外して自然に任せた方が良いではないか。人工呼吸器などというハイカラなものがなかった昔は、最後は畳の上で静かに死なせてやったものだ」と。

 だが最近、現実の状況に遭遇して少し考えが変わった。確かに、回復の見込みがほとんどないのに、いたずらに何週間も何ヶ月間も延命処置を施すというのでは、果たして患者の為になっているのかどうか疑問に思う人もいる。付き添っている家族の方も参ってしまう。ここまでして延命治療したくないと考える人も多いだろう。

 しかし、せめて息を引き取るまでの最後の時間を、できるだけ苦しむことなく過ごさせてやりたい、こういう考えに基づく延命処置は、むしろ患者と家族双方のためになるかもしれない、ということに気付かされた。

 脳死と判断された時、まだ感覚が残っているうちにいきなり人工呼吸器を外して、いきなり苦しみながら死ぬ様子を見るよりは、最低限、人工呼吸器を付けて、リンゲル液や必要に応じて症状緩和のための薬剤は投与し続け、だんだん感覚が鈍っていきながら体の各器官が徐々に機能を停止し、最終的に心停止を迎える。こういう穏やかな死も良いではないか、そう考えるようになった。実際、私もそのような状況に居合わせたのだが、周りで介護している側としては、確かに死ぬまでの間は、心拍数や血圧などのモニタさえあれど、生きるか死ぬかの先行きなど全く見えず、まるで行けども行けど果て無きぬかるみを行軍しているかのようで、一日一日が本当に長く感じられる。けれどもこの時間が、家族にとっては、俄(にわか)には受け入れがたい「迫り来る死」という現実と向き合い、それを徐々に受け入れ、心の整理をする時間ともなる。そして、数日かけて覚悟がようやく決まった頃、突然に心電図の波形が乱れ始めるが、それほど大きく取り乱すことなく、最終的に患者の心停止を迎えることができるというものだ。後に棺に収まることになるが、窓ごしにのぞく姿が本当に安らかな、まるでまだ生きていて今にも起き出しそうなほどの美しい寝顔で、普段はグロテスク嫌いの人であってもほとんどショックなく最後の対面をしていたのが印象的だった。

 もちろん理性的に考えるなら、脳死状態の人が人工呼吸器を外したら苦しんで顔をしかめるなんてことは無いだろう。どこまで感覚が残っているかもわからない。だからいきなり人工呼吸器を外すのも確かに一つの選択だ。また、患者や家族が臓器提供を希望しているなら、自分は死んでも臓器が他の人の一部となって生き続けることこそ本望だろう。しかし家族の感情として、そんなのは可哀想だと思うなら、適切な範囲の延命処置を施すのが良かろうし、家族の気持もそれで救われるだろう。こういう選択肢もある。

 さて葬式についてだが、最近は海などへの散骨という選択肢がだんだん日本でも受け入れられ始めている。それに、御霊前にお焼香して坊さんの念仏を聞くとか、教会で賛美歌を歌ったり牧師さんの説教を聞くといった従来の形式ではない「無宗教式」つまり宗教的儀式はあまり行わず、どちらかというと「故人を偲ぶ会」に近いというか、故人や遺族の自由な発想に基づいて企画される葬式というものも少しずつ増えてきている。たとえば音楽好きの故人であれば「音楽葬」などというものがあるし、海をこよなく愛する男だったなら船をチャーターして海上葬というのも気が利いているかもしれない。

 ここで問題が生じるのが、無宗教式でのしきたりはどうすればいいのかということである。結論から先に言うなら、大抵は、従来の葬式ほど肩ひじ張らなくていい。まず、数珠を持って行く必要はない。喪服とか黒っぽい服でなければいけないの類のドレスコードもさほど厳格でないかもしれない。香典やお花代に関しては、特に要りませんという場合もあるかもしれないけれど、もし持って行くならどんな袋に入れればよいだろうと疑問に思う人は多いだろう。これもあまり厳格ではない。私だったら、まあ安っぽい茶封筒ではあんまり品格がないだろうから避けるけれど、無地あるいはワンポイント花柄入り「万能封筒」(宗教に合わせて後で「御霊前」「御神前」「お花代」の文字を手書きで入れられるようになっているタイプ)を使うだろう。なければ郵便番号欄のない白色無地の洋封筒あたりならあまり品位を損ねないだろう。表に書く文字は、葬式の品位を損ねない範囲で、これまた自由で良いのではないか。

 でも、どうせ従来の形式にとらわれない無宗教式なら、ここは新しい発想で。同じ袋は袋でも、遺族を慰めるメッセージカードを入れた封筒を贈る方が気が利いているかもしれない。そして、特に遺族から「お香典お断り」とか言われてなければ、その封筒に幾らか気持ちだけ一緒に包んでもよいだろう。

 もっとも、無宗教式に慣れてない人の方が多いだろうし、これまでの仏教式のしきたり通りに、たとえば故人に手を合わたりとか、仏教式の「御霊前」と書かれた香典を出したりする訪問者も多いだろうことは遺族も重々承知しているはずだから、「何か間違ったことをして嫌な顔をされるんじゃないか」と不安になることはない。無宗教式に慣れてなくて少々ぎこちなくとも、故人を偲ぶ気持ちさえ十分伝われば、遺族としてもそれで十分感謝するだろう。いずれにしろ、無宗教式では、しきたりは遺族次第であるから、あらかじめ確認しておくとよい。また、無宗教式で葬式を行う遺族は、無宗教式はどうすればよいのか知らずに戸惑っている人が多いだろうことを考慮し、自分たちの意向をあらかじめ細かく伝えておくことが大切だろう。

 最後に、しきたりも大切だけれど、遺族の感情に配慮するというのはそれ以上に大切なことである。私が気を付けている事の一つに、たとえばおじいちゃんが亡くなったとして「二人のうちまだおばあちゃんが生きてるからいいじゃない」とか、二人兄弟のうち一人が亡くなったとして「まだもう一人いるからいいじゃない」などと安易に言うのは慰めの言葉にならない。お兄ちゃんの太郎君と妹の花子ちゃんがいて、たとえ太郎君が死んだからといっても、お兄ちゃんの代わりになれるのはお兄ちゃんの太郎君本人だけで、花子ちゃんはお兄ちゃんの代わりなんかになれない。家族というのは、一人一人が違う名前を持った、取り替えのきかない一人一人なのだ。