“気違い沙汰”は“要注意語”だが“差別用語”ではない

 「亀井氏の“差別発言”吊し上げ祭り」が、恐らく今日のマスコミ報道によって一斉に火蓋を切るだろう。

 晩のニュースで、自民党亀井静香氏の「総裁選で小泉首相が落選し、なお総理にとどまるようなことがあれば、政党政治の否定であり“気違い沙汰”である」との発言が報道され、例の「不適切な発言をお詫びします」が続いた。また例によってマスコミの過剰反応だ。そして“気違い=差別用語”という偽りを日本中に広めていく。

 私は以前から、“差別用語”と呼ばないでのセクションで、きちがいという言葉を差別用語扱いするのはおかしいと指摘している。確かにこの言葉は、まるで研いだばかりのナイフの刃のように、一つ使い方を誤ると、人の心を容易に深く傷つけ得るから、使い方には気を付けなくてはいけないのは当然だ。その点で“要注意語”というのは正しい。しかし、そういう言葉に“差別用語”というレッテルを貼るのは、いかがなものだろう。

 上に挙げた亀井氏の発言は、別に精神障害者を馬鹿にしたものではなく、落選しても総理のままだと主張するのは血迷った行動(=この文脈での「気違い沙汰」の意味)だという意味に過ぎない。それを、精神障害者差別をわざわざ引き合いに出して“差別発言”扱いするのは、極端ではなかろうか。


 きょうびの“差別用語”吊し上げは、喩えるなら、包丁で魚をさばいていたり、果物ナイフで林檎をむいていたりする人に対して、「あの人、危険です! 凶器を持ってます!」「人を殺す気はないだろうけど、そう誤解する人もいるに決まってる」などと言うようなものだ。もしこんな事を言われたら、まあ本当に失礼しちゃうわと思うのが普通だろう。確かに包丁やナイフは一つ使い方を誤ると凶器となり得るし、自分の不注意で他人に怪我をさせてしまう危険もあるが、こういう場面で「凶器を持ってる」などと言うのは大袈裟だろう。

 1960年に社会党の浅沼書記長が17歳の少年にナイフで刺されるという事件が起こった。その後、「子供にナイフを持たせるのは危険」という声が挙がり、子供達の手から“肥後(ひご)(かみ)”が取り上げられ、代わりに鉛筆削り器が与えられた。しかしそれ以後、子供の暴力事件は減っただろうか。皮肉な事にむしろ増加している。先生がいくらナイフを禁止しようが、不良達はどこかでバタフライナイフを手に入れて凶器に使うに決まってる。そうすると、“ナイフ=不良の持ち物”というイメージがさらに増幅され、固定化されていく。


 “傷を負った者の痛みは、傷を負った者でないとわからない”とは、“差別用語”吊し上げを行う者がよく使う言葉だが、子供たちの多くが肥後の守を持っていた時代は、まさにその言葉が当てはまったという。つまり、自分でナイフを使ううちに、時には小さな怪我をすることもある。それを教訓として、ナイフをどう扱えば怪我をしないのかがよくわかるし、また、ナイフで怪我をすることの怖さというものがわかるから、むやみに振り回すことはしなくなる。この点、子供にナイフを与えることは、逆にナイフの誤用の怖さを教える良い教育ともなり得る。

 確かに、子供には鉛筆削りを与えれば、ナイフを持つ必要はないし、ナイフで怪我をする危険もない。少年の暴力の原因をナイフに責任転嫁し、“ナイフは人を殺せる凶器だから子供から取り上げるべきだ”というのは簡単だ。しかし、このようにして育った子供がナイフを手にした時、どうなるだろうか。答えはあえて書かない。


 言葉も似たようなものだ、というのが私の考えである(上に書いたナイフの喩えが、言葉にどう当てはまるのかは、各自考えていただきたい)。相手や自分がちょっとでも傷つくことを極端に恐れ、“(あつもの)に懲りて(なます)を吹く”ように言葉を扱っていては、本当に上っ面だけの表面的な人間関係しか築けない。ナイフの刃先の鋭さを持った言葉も、時には必要だ。一つ例を挙げるなら、「馬鹿」という言葉は、使い方を誤ると心を深く傷つける凶器となり得るが、だからと言ってこの言葉を日本語から取り上げるのは、いかがなものか。この「馬鹿」という言葉を、人を築き上げる仕方で見事に使いこなせるのが、大人ってものだ(まるで波平のように「バカモン!」と子供に一喝する父親や、「もう、あんたって、おばかさんね(ハート)」などと愛を囁く?恋人を想像していただきたい)。

 “マスコミの常識は日本の常識”というのは、大きな思い込みである。いい加減、“言葉の過保護”政策は止めよう。まるで果物ナイフで林檎をむいている母親を「凶器を持っている」呼ばわりするような馬鹿な真似も、いい加減、終わりにしよう。一人一人が、言葉という“ナイフ”の正しい使い方や研ぎ方を身に付けている、これが理想の姿だ。