“フリーソフトがソフトウェア産業を滅ぼす”?(その1)

 無償ソフト(フリーソフトフリーソフトウェアと呼ばれる)、あるいはオープンソース(ソースプログラム公開)ソフトの氾濫は“ソフトウェア産業を滅ぼす”。最近、この主張を時々耳にするようになった。たとえばLightCone氏によるフリーソフトがソフトウェア産業を滅ぼすという文章は、この種の主張の代表的な意見である。

 実のところ、フリーソフトウェアソフトウェア産業を脅かすという意見は、私の知っている限り、MS-DOS全盛期の約十年前には既に存在していた。当時、市販CADソフトを何十万円もかけて導入していた建築事務所等では、jw_cadというフリーソフトウェアが登場すると、すぐに人気になり、あちこちで導入するようになった。無料なのに市販ソフトにひけを取らない高機能は一番の魅力だったし、ドングルプロテクトもかかってないので、複数台のPCで同時に図面を描く事ができ、仕事が効率的になった。この状況にいい顔をしなかったのは、当然ながら、市販CADソフトのメーカーである。当時、フリーCADソフトの擡頭(たいとう)を憂慮する市販CADソフトのメーカーが連合したという話がパソコン業界でニュースになったのを覚えている。(その後どういう展開になったのかは不明だが。しかし少なくとも、jw_cadが今でも業界で広く使われているということは確かだ。)

フリーソフトウェアオープンソースソフト、何が「フリー」で何が「オープン」?

 フリーソフトウェアをあまり理解していない人はしばしば混同しがちだが、フリーソフトウェアオープンソースソフトとは厳密には異なる。前者は「フリー」と名が付くが、英語では「フリー」は無料と自由の二つの意味を持つため、どちらも意味で「フリー」なのかは、少々曖昧だ。しかし大抵は、無償ソフトという意味で用いられることが多い。無償ソフトであっても非オープンソースのソフトは多いから、全てのフリーソフトウェアオープンソースソフトではない。

 対してオープンソースソフトとは、ソースプログラムを公開しているソフトという意味である。この意味から文字通り考えると、無償ソフトでも、有償ソフトでも、ソース公開していれば“オープンソース”と呼べそうな気がするが、実際には、この言葉は無償再配布の認められたソフトに対して使われるのが普通である。

 つまりたとえば、過去に商品化されたことのある、「ソース公開、カスタマイズ可能」を売りにした販売管理ソフトや会計ソフトも、マイクロソフトの「シェアード ソース ライセンシング プログラム」(契約に同意してライセンス料金を払えばソースコードを開示するというもの)も、厳密にはオープンソースではない。この種のライセンスは、ソースコードの閲覧やユーザのプログラム変更を許してはいても、変更したプログラムの再配布は、たとえば絶対駄目とか、一ライセンスだけなら可能などと、条件が付いている。場合によっては、ソースの開示を受けるためには機密保持契約を結ぶ必要がある。

 このように、フリーソフトウェアオープンソースソフトとは、明らかに意味の異なる言葉である。また、フリーソフトウェアの「フリー」とは何を指しているのか、それをまず明確に理解する必要がある。「無償」という意味の他に「再配布の自由」「ソース改変の自由」が付くか付かぬかは、ライセンス条項次第である。また、オープンソースソフトの「オープン」は、単なる「ソースコード公開」だけでなく「ライセンス料を払った人だけに限定した公開ではなく、みんなに情報を公開する」「プログラム開発に加わるための門戸が誰にも開かれている」という意味でオープンなのだ。フリーソフトウェアオープンソースにはこれら異なる「フリー」「オープン」が含まれている事を念頭に置いていただきたい。

2003/08/29修正:オープンソースとシェアードソースを混同していた部分を加筆修正。

フリーソフトウェア共産主義”か?

 多くのフリーソフトウェアに見られる「公共の財産」という思想や、「非営利の共同開発」というスタイルは、“富の分配”であり“共産主義”みたいなものだ、などと、しばしば誤解を招く言い方をされている。

 多くの場合この言葉は、“富の分配”という良い面に目を留め、共産主義の当初の高邁な理想との共通点を語る、良い動機でのものだろう。それはさほど大きな問題ではない。私が問題にするのは、“フリーソフトウェア共産主義である。しかし共産主義は失敗した。同じようにフリーソフトウェアも失敗する”という、ねじくれた三段論法である。


 はっきり言うが、フリーソフトウェアは“富の分配”ではあれども、かつての東欧諸国や中国・北朝鮮のような共産主義に似たようなものでは決してない。共産主義とは、市場経済と財産の私有化を否定し、共産党独裁政権による計画経済を推し進めることである。「フリーソフトウェア共産主義」論を主張する人に逆に質問する。フリーソフトウェアのどこに、共産主義の特徴である

    • 競争原理の否定
    • 財産私有の否定
    • 独占組織による統制

があるというのだろうか。“市販ソフトと異なりゲンナマが動かない”というただ一点に気を取られて、「フリーソフトウェア共産主義」だと思い込むのは愚の骨頂である。


 フリーソフトウェア推進派のほとんどは、「非フリーソフトウェアフリーソフトウェアは共存共栄する」と考えているのが普通である。フリーソフトウェアというと、「非フリーソフトウェアは悪であり、ソフトは全てフリーソフトウェアであるのが理想」というリチャード・ストールマンGNUプロジェクトの創設者)の急進的な考えがとかく引き合いに出されるが、このような考えは、全体からするとむしろ例外に過ぎない。ストールマンのこの考えでさえ、共産主義と決めつけるのには少々無理があるだろう。

 まず、“競争原理の否定”から考えていこう。先のjw_cadの例でもわかる通り、フリーソフトウェアとはフリーソフトウェア以外の存在が法律などで許されない独占的な存在などでは決してない。非フリーソフトウェアのライバル、競争相手と容易になり得る。言葉を替えるなら、「フリーソフトウェアと非フリーソフトウェアは同じ土俵に立っており、非フリーソフトウェアが土俵に立つ前から排除されることはない」のだ。フリーソフトウェアを非フリーソフトウェアの強力な競争相手だとして危機感を煽っている人が、その一方で「フリーソフトウェア共産主義」などと主張するのは、率直に言って矛盾ではなかろうか。フリーソフトウェア共産主義どころか、まさに競争原理的な存在である。

 フリーソフトウェアは非フリーソフトウェアのライバルとなり得るばかりでなく、別のフリーソフトウェアのライバルともなり得る。LinuxFreeBSDが良い例だろう。


 次に、“財産私有の否定”について考えてみるが、そもそも、「公共の財産」という思想を、即、共産主義扱いするのは、いかがなものだろう。身近な例で言うなら、図書館の本は公共のために解放されている。しかしそれは共産主義だろうか。よく考えてもらいたい。

 “財産私有の否定”が前提の共産主義社会とは異なり、資本主義社会では私有財産と共有財産のいずれも許される。共産主義かぶれの輩は、「公共の財産」とか「財産の共有」なるものを見付けると、とかく共産主義と結びつけたがるが、それは短絡思考としか言いようがない。先に述べたとおり、多くのフリーソフトウェア推進派の考えによると、フリーソフトウェアと、“企業の私有財産”なる非フリーソフトウェアとは共存し得るものであり、後者の存在を決して否定していない。


 最後に“独占組織による統制”であるが、フリーソフトウェアと呼ばれる物は例外なく、まるで共産主義国家のような中央集権・独占管理体制で開発されているものだろうか。答えはフリーソフトウェア否定論者自身が出している。“Linuxのようなフリーソフトウェアの開発グループは市販ソフトのそれと違い統率力、管理能力がなく、責任の所在も定かでない”。これは半分悪口であるが、少なくとも組織の統制という雰囲気が感じられないことを、彼ら自身が述べている。

 もちろんLinuxのプロジェクトのように、ある程度組織だって開発されているグループがあるのは事実だが、フリーソフトウェアの開発者や開発グループはそれだけではない。それこそ海の砂粒のように非常に沢山ある上に、それらすべてを統制する組織なるものは存在しない。私はオープンソースフリーソフトウェアを作成し公開しているが、たとえばGNUプロジェクトに所属しろとか、その指示に従えなどと言われた覚えは一度もない。あくまでも自由な立場で開発できるのだ。GPLの思想が気に入らない人はBSDライセンスを選んでもよいし、自分でライセンス条項を決めてもよい。共産主義にはこの自由は決して許されない。共産主義の原則から外れる市場経済が特別許されている場合を除き、原則として自分で作った農作物を自分で勝手に処分することは許されない。私はマルキシズムに同意しないから、トロッキズムの原理に従った農場を作る、とか、私は主体思想に同意しないから、マルキシズムに従った工場を作る、などと言ったら、反逆者として処刑される。

 前項とも重なるが、その開発したソフトは、どこかの独占組織の所有物ではなく、あくまでも開発者の財産である。もちろん他人がそのソフトを使うのは自由とか、他人の改良結果が新バージョンに反映されるという意味で「公共財産」と言われることもあるが、それはあくまでも開発者がそのソフトの使用や改良をライセンス条項に従って他人に許可しているに過ぎないし、後者に関しても「共同開発」という意味にしか過ぎない。共同作業は、共産主義社会だけの専売特許などでは決してない。


 共産主義の特徴は独占と統制であり、「フリー」つまり自由とは決して相容れない。フリーソフトウェアの「フリー」とは、利用者にとっては「無償」(そしてソフトによっては「再配布の自由」「ソース改変の自由」)という意味だが、開発者にとっても「自由競争」「ソフトウェア資産私有の自由」「統制からの自由」という意味で「フリー」と言える。つまり会社組織を通さず個人で自由に配布できるソフトであり、また開発したソフトは会社組織ではなく自分の所有物となる。前にも述べたが、どこかの組織に所属したり特定の信条を受け入れる義務は一切無いし、ライセンス条項も自分で決める事ができる。

 フリーソフトウェアは、“富の分配”という、一見共産主義的に見える皮をかぶりながら、実際には全く反対の、自由主義と競争原理の下で普及しているソフトである事は間違いなく、フリーソフトウェア否定論者も、本当は、この競争主義的な部分を危惧しているのだ。確かにフリーソフトウェアは革命ではあるが、システムがまるっきり変わる共産主義革命というよりも、便利な道具が徐々に浸透しながら社会が良くも悪くも変化していく産業革命の起こした影響に近い。産業革命の頃のイギリスでは、便利な自動織機の登場により職を失うことを危惧した毛織物職人らが暴徒と化して自動織機の打ち壊しを行った“ラッダイト運動”が起こったが、フリーソフトウェア否定論者は現代のラッダイトではないかと思ってしまうのは私だけだろうか。