英語教育の常識を疑え

「英語の読み書きや文法よりも英会話を重視せよ」?

 「日本の英語教育は英語の読み書き中心で、会話の苦手な人が多い」という意見をよく耳にする。しかし、むしろその方が普通じゃないの、と思うのは私だけだろうか。

 例えば、「昨日私は兄と一緒に海で泳ぎました」。これを1分以内に英訳して紙に書くのと、10秒以内に英訳して口で話すのと、どちらがやさしいことだろうか。

 英会話とは、言わば即席英作文である。英作文のできない者が、英作文よりも短い時間で話の内容を組み立てることなど、本当にできるだろうか。

 なるほど、紙に書くときよりは文法の細かな間違いは大目に見てもらえるのは確かだ。それでも、文法がめちゃくちゃでは正しく理解してもらえないから、やはり大切なのは言うまでもない。

 明治以来、日本の英語教育では英会話よりも文字の読み書きが中心だったのには、実は訳がある。外人と話をする機会と、英文を読む機会と、どちらの方が多いだろうか。大抵は後者の方が多いだろう。重要な方を重視するのは当然である。

 確かに、日本人には英会話の苦手な人が多いかもしれない。しかし英語の読み書きなら出来る人が多かったから、先人たちは英語の資料から貪欲に知識を吸収して、今のような技術大国日本を築いてきたのである。今ではコンピュータにウェブにEメール、英語があちこちで使われているから、書き言葉としての英語は昔も今も重要だ。

 確かに英会話は大切である。しかし、英会話偏重のあまり、読み書きや文法といった基礎をおろそかにするという極端に走るべきではない。

おまけの資料:佐藤紅緑「あゝ玉杯に花うけて」 第三章より

 英語の先生に通称カトレットという三十歳くらいの人があった、この先生は若いに似ずいつも和服に木綿のはかまをはいている、先生の発音はおそろしく旧式なもので生徒はみな不服であった。先生はキャット(ねこ)をカットと発音する、カツレツをカトレットと発音する。
「先生は旧式です」と生徒がいう。
「語学に新旧の区別があるか」と先生は恬然*1としていう。
「しかし外国人と話をするときに先生の発音では通じません」
「それだからきみらはいかん、語学をおさめるのは外人と話すためじゃない、外国の本を読むためだ、本を読んでかれの長所を取りもってわが薬籠*2におさめればいい、それだけだ。通弁*3になって、日光の案内をしようという下劣な根性のものは明日から学校へくるな」
 生徒は沈黙した。生徒間には先生の言は道理だというものがあり、また頑固で困るというものもあった、が結局先生に対してはなにもいわなくなった、……

*1:こだわりなく、平気なさま。

*2:くすりばこ。「自家薬籠中の物」といえば、薬箱に入れた薬品と同じように、いつでも自分の思うままに利用できるもの。そのたとえに言う。

*3:通訳。