「全生研」の謎が解けた

 私はかつて地元木更津の公立小・中学校に通っていた。「何て右翼的な学校なんだろう。入学式も卒業式も一同敬礼(国旗敬礼)や国歌斉唱があり、運動会でも国旗掲揚がある。中学校に至っては入場行進でナチス式の“かしら右”をやらせるなんて」。当時の私の感想であった。「関西の方の学校はむしろ左翼的でこういうのが全然ないと聞くけど、自由で何てうらやましいのだろう」。

 とは言っても、私は左翼的風潮は手放しに喜べなかった。私は小・中学生くらいの頃から、学校というものはアカ教員の巣窟で、組合の方針に逆らう教員はネチネチいじめられてしまう大変なところだ、という印象が強くあった。組合をなかなか辞めさせてもらえなかったり、組合をやめることで散々嫌がらせされたという話を、私のごく身近で聞いていたからだ。(それはあんまりにも散々だったらしく、本人は今でもその当時の話を、あまり口にしようとしない。)

 その割には、私の通っていた小・中学校では、かの侵略戦争の話が大好きな「日教組先生」なんてのは、あまり見なかったように思う。卒業式の国歌斉唱ではどの先生も「君が代」を歌っていた(ように「見えた」)し、ましてや国歌斉唱を妨害する教員なんて考えられもしなかった。

 が、一人の先生だけは謎だった。数学の男の先生で、まあ良くも悪くもユニークな先生だった。ヘビースモーカーだったせいか、頬がやせこけてしわも多く、本当は45歳だったのに五、六十代くらいに見えた。しかも足はいつも裸足にサンダル。授業の後の礼はいつも省略で、知らないうちに「じゃあな」と言って帰ってしまう、変な先生だった。

 それ以外で印象に残っていたのが、卒業生を送る会で「あゝ野麦峠」の劇を企画し、シナリオも自分で書き、演技指導も行った、プロデューサとしてのその先生の顔。この劇は余程好評だったと見えて、次の年度の新入生歓迎会だったと思うが、そっくり再演された。

 さて、その先生のいた頃は、朝礼の前に「飛び立とう」という歌の伴奏テープが放送され、その歌を歌いつつ行進しながら体育館に集まるようになっていたが、この発案者がその先生だった。お世辞にもあまり歌は得意でない先生だったが、朝礼の時にこの「飛び立とう」や、「一粒の種」「どこまでも幸せ求めて」「一人の手」など幾つかの曲を歌唱指導していた。肝腎の生徒はあまり乗り気でなかったと見えて声はいつも小さかったが、真面目を絵に描いたような私だけは、その小さな声を一人でフォローせんかとばかりに大きな声で歌っていた。

 それにしても、「一人の手」は小学時代もよく歌わされたし比較的有名な歌だと思うが、残りはほとんど聞かない歌ばかり。果たしてこの先生はどこからその歌を知ったのだろう、というのが謎だった。

 そしてある日、私が体育館掃除していた時だと思うが、右袖の音響機器の近くに落ちていた、「全生研」うんぬんと書かれた、ポケットサイズの緑色の歌集を見つけた。目次を見ると、これらの謎の歌がみんな入ってた。しかも曲によっては、題名の隣に「全生研テーマソング」という文字もあった。

 果たして「全生研」とはどんな団体なのだろう。その歌集の最初のページには「民主主義教育を押し進める教師達の団体」であるということしか書かれてなかった。どうも日教組に似たアカい団体ではないかとも思ったが、この臆測に自信はなかった。だから、音楽の先生(例の数学の先生とは別の人)に「全生研って何ですか?」と聞いてみたのだが、その先生もわからなかったようだ。結局、「全生研」という謎の団体は、私にとってはつい最近までその実体がヴェールに包まれたままだった。

 インターネットを利用するようになってから、時々この謎を思い出して「全生研」の文字をAltaVistaやgooに入力してみることもあったが、しかし検索結果は芳しくなかった。インターネットでも見つからない情報は確かにある。インターネットでも見つからず私だけが知っているならば、私は早速「はなごよみ」に書くところなのだが、今回は私は知らない側なのだ。結局謎のままだった。

 ところが今日、思い立ったようにgoogleで検索してみたところ、ようやくどのような団体なのか少し見えてきた。全生研とは「全国生活指導研究協議会」の略。日教組や全教のような組合とはちょっと違うようだ。しかし綱領に「反動的な道徳教育の打破と清算につとめる」(反動的=保守的、右翼的の意)とあるように、左翼的な民間教育団体であることがわかった。やっぱり私の中学時代の勘は当たっていたことがわかった。謎が解けたところで一件落着。