歴史的仮名遣を使ふのは「先祖から伝承してきた」だけではない

http://d.hatena.ne.jp/mhrs/20120922

どこからでもリンク可能な状態で公開しておいて、リンク、引用その他は自由ですとも言つておいて、實際にリンクされたらこれ。何なの。
丸一日惱んだけれど結局消した。

 正かな同人誌やら正かなクラスタやらは、仮名遣といふ「形式」に囚はれて、先祖から継承してきた文化を守る事を蔑ろにしてゐる、だからリンクを張つたりアンテナに登録してくれるな、といふ趣旨の意見があつて、リンクを今後張らないとか、アンテナを削除したといふ事があつたやうですが、何故このやうな意見が出たかについては、少々解説の必要が有るでせう。
 「正かなづかひ 理論と實踐」第2号のテーマは、野嵜さん発案の「正義と宗教」だつたのですが、私は当初「無神論、不可知論、カルト宗教の社会問題」について書かうと考へてゐました。
 私も宗教そのものが馬鹿げてゐるなどと書く積もりはありませんでしたが、善悪はともかくとして、「宗教は時代後れだし人を騙すものが多くて、所詮は心の弱い人がすがるためのもの」と考へてゐる人が多い現代において、「確かに怪しい新興宗教の起こしてゐる問題から悪いイメージを持つてゐる人は多いし、それを心配する気持ちはわかるし対処の必要もあるが、宗教そのものは様々な役割を持つてゐるし、一概に悪者扱ひしたり全く不要とみなすのは如何なものか」といふ結論に持つていく予定でゐました。
 しかし、私の説明があまりにも下手だつたため、監修者の野嵜さんを怒らせて仕舞つただけでなく、創刊号には記事を寄稿してくださつた事もある三宅さんを一番怒らせて仕舞ふことになりました。
 「親を選べないのと同じで、我々は先祖から伝承してきた国語文化を守るべきなのと同時に、先祖から伝承してきた宗教(神道や仏教)も、『信教の自由』だの『宗教組織の問題点』だのと言ひながら捨てる事は許されない」「宗教を蔑ろにするやうな人(私を指してゐる)が正かなづかひだ何だと言ふのはをかしいのでは」といふ趣旨の非難でした。

たゞ「先祖から伝承してきた」だけでは不十分

 しかし私はあへて反論します。「先祖から伝承してきた文化」といふだけで、それを無批判で受け入れるのは如何なものでせう。
 そもそも仮名遣にしてもさうです。歴史的仮名遣は「先祖から伝承してきた文化」どころか、もうすぐ途絶えようとしてゐます(学校の古典の授業では学ぶでせうが、「死んだ過去の言葉」として学ぶだけで日常の生きた表記としては現在あまり使はれませんし、古典の授業を廃止せよとの声も上がつてゐます)。今の若い世代は祖父母でさへ現代かなづかいで教育された世代になつてきてゐるので、今後は代りに現代仮名遣こそ「先祖から伝承してきた文化」になりつゝあります。この「親の伝へる文化」も正統とみなすべきでせうか。
 似た例として、祖父母以前の宗教としては神道や仏教を信奉してゐたけれども、親の世代は神道や仏教を悪魔的宗教として排斥する新宗教を信じてゐる、といふケースは私も時々見掛けます。時には三世、四世になつてゐるかも知れません。親の宗教をそのまま伝承すべきでせうか、それとも家族から絶縁されて生活に苦労する事を覚悟で、祖父母またはそれ以前の宗教である神道や仏教に立ち返るべきでせうか。(私が第2号に当初書かうと思つてゐたのは、この問題も含まれます)
 後世に伝へてはならない文化もあります。部落差別のやうな悪しき文化は絶滅させて然るべきである、といふ意見に異論を唱へる人は殆どゐないでせう。病気の治療には祈祷師を呼ぶ事が日本古来の文化でしたが、もしそれが悪霊払ひによる「治療」にこだはるあまりに、西洋医学を拒否する、といふ極端な態度を取る「治療」であるなら、命に関はるかも知れません。

歴史的仮名遣を使ふのは「先祖から伝承してきた」だけではない

 単に先祖から伝承してきた仮名遣を受け入れるのが正統だと云ふのであれば、現代仮名遣教育三世、四世の若い世代にとつて、その仮名遣とは「現代仮名遣」でせう。我々の祖父母や曾祖父母の世代が「歴史的仮名遣を捨てて現代かなづかいを受け入れた歴史」を受け入れて、我々もそれを受け継がなければならない、と云ふ事になります。
 しかし私は、私の祖父母の世代の大半が「歴史的仮名遣を捨てて現代かなづかいを受け入れた歴史」は間違ひで、それ以前の世代が長らく守つてきた歴史的仮名遣に立ち返るのが理想だ、と考へてゐます。「発音通り」の綴りは一見簡単なやうで、実際には語源や文法をわかりづらくする短所が有るし、時代と共に発音が変ると仮名遣をまた改訂する必要があつて「いたちごつこ」になる、といふ理論的な理由も有りますし、国語の些細な部分の改革ならともかく、根幹をなす「仮名遣」を「表音主義者優勢の雰囲気の密室で非民主主義的な仕方で決定されて半ば強制された」事に対する疑問も有ります。私の場合、祖父は死ぬまで正字正かなで書いてゐたので、「先祖から伝承してきた」と言へなくもありませんし、それも確かに理由の一つではありますが、それだけが理由ではないのです。
 考へてみれば、契沖も長らく支持されてきた藤原定家の仮名遣を盲目的に支持する事なく、「一部誤りがある」と唱へて、それは明治時代の公教育での歴史的仮名遣にも取り入れられました。神道のみ信じられてゐた日本で、反対があつたにもかかはらず外来宗教である仏教を取り入れた歴史があるからこそ、今の日本の仏教の歴史があるのではないでせうか。時には伝統に疑問を抱く事も必要と言へるでせう。

「長い歴史」は「安全牌」といふ側面

 とは云へ、私は「先祖代々の伝統」と云ふものがあまり価値のないものだとは決して考へません。特に、蓄積された経験は大いに益となりますし、いはゆる「安全牌」を知る目安として役立つ事が多いものです。
 たとへば私は「長い歴史を持つ伝統宗教」と「新興宗教」の違ひを、「安定バージョン」「β版」と、コンピュータソフトのバージョンに喩へて説明する事があります。前者は長い歴史の試練に耐えてきただけに、多くの人が信頼してゐますが、後者は新しいだけに未熟な部分や問題のある部分もあり、それを見極める力の無い人が盲目的に信用するのはどうかと思ひます。
 仮名遣も、歴史的仮名遣は長い歴史を持つて発展していつた伝統宗教のやうであり、現代仮名遣は「発音を唯一神とする新興宗教」のやうです。発音とずれた仮名を一致させるなどといふ発想は比較的新しいもので、国語の長い歴史の中で、藤原定家や契沖や他の多くの人も、発音と仮名のずれを認識してゐながら「仮名を発音側に合はせる」事をしなかつたといふ前例からしても、「発音と仮名のずれは、無理に合はせようとしない」事が国語の「安全牌」だと私は考へます。

「見た目の仮名遣」から入つても良いぢやない

 「見た目の仮名遣」だけで、正かなクラスタのサイトへのリンクと、自分のところへのリンクを一緒に登録してくれるな、と云ふクレームについてですが、怒られさうなことを敢へて言ひます。「見た目の仮名遣」なのか「魂もこもつてゐるのか」を、文章を見ただけでさう簡単に識別できるものですか。それに、「見た目の仮名遣」から入つて、何がいけないのですか。
 世の中、「良ゐ」とか「赤ひ」のやうな「なんちやつて歴史的仮名遣」を使用してゐるサイトとか同人誌もたまに見掛けますが、確かに文法的には誤つてゐて見るに堪えないかも知れません。しかし、「間違ひを恐れずに、とにかく書いてみた努力」は認めたい。
 正かな同人誌にしても、「とにかく歴史的仮名遣の原稿が活字になる事」が第一目標であるのは確かです。しかし、その「形」から先に入つたとしても、「先祖から継承してきた文化」だの「日本の魂」だのの大切さにその後から徐々に気付く、と云ふのでも良いではありませんか。
 それは国語だけに限らず、何にしてもさうです。子供は柔道を「強くて恰好良い」と憧れるでせうし、実際に始める者も多いでせうが、その背後にある精神は一朝一夕にわかるものではありません。でも、精神が完全にわかつてから柔道を始めるのではなく、先づは柔道を始めてから、その背後の精神が次第にわかつていく方が、きつと近道ではないでせうか。宗教についても似たやうな事が言へると思ひます。
 この点、私もまだまだ学んでいかなければならない事は沢山あります。しかし、先づは実際に始めてみて、その背後にある精神は時間を掛けてじつくり学んでいきたい、と思つてゐます。