意見の分かれがちな宗教の話題

 「正かなづかひ 理論と實踐」第二号の原稿が次々集まつてゐます。読み応へのある記事ばかりで、これから本になるのが今から楽しみです。
 かねてからお知らせしてゐる通り、第二号のテーマは「正義と宗教」です。しかし、「宗教」といふこと一つ取つても、人によつて何と意見の分かれる事でせうか。

一つの宗教のみが正しい道なのか、それとも違ふ宗教は同じ目的地に通ずる別々の道なのか

 「我々の宗教こそ真理を持つてゐて、他の宗教は邪教、異端」とみなす、といつた具合に、前者の見方を取る宗教は決して少なくありません。一方、「神道も佛教もキリスト教も、みんな良い事を教へてゐるし、どの宗教が正しいなどといふ事に拘る事はない」、と、後者の見方をする人も多いものです。

理屈を重視すべきか、伝統や精神等、理屈でない部分を重視すべきか

 一般に「キリスト教徒」といふと「日常生活の全ての規範が聖書に基づいてゐる」とか「何かにつけて聖書を引用したがる」といふ印象を持つ人も多いかもしれません。しかし意外なことに、これは飽くまでも「プロテスタント的」な思考パターンであり、カトリックプロテスタントに共通して見られるものではないやうです。
 たとへば、カトリックは「キリスト教の教へは全てが聖書で説明されてゐるわけではない。聖書も大切だけど、神様の導きを受けた教会を通して教へを受ける事、そして教会の伝統を守ること、これら全てが大切だ」と教へてゐるやうです。教会にキリストやマリアの像を置きなさいと聖書に書かれてゐるわけではありませんが、カトリックの大切な伝統なので守るといふわけです。
 一方プロテスタントは「聖書こそがキリスト教の『モノサシ』で、聖書の裏付けのない教義を教へるのはをかしい。たとへばマリア像を崇拝に使ふのは聖書で禁止してゐる偶像崇拝なので、キリスト教として間違ひだ」と教へてゐます。
 両者の違ひを一言でまとめるなら「宗教にとにかく理屈を求めるプロテスタントと、理屈にこだはらないカトリック」と言へるでせう。もしかしたら、両者の登場した時代背景とも関係あるのかもしれません。つまり前者は活版印刷が登場し、聖書を一人一冊持てる時代になつて生まれたもので、後者はそれより古い時代、つまり手で書き写された数少ない貴重な聖書が、ユダヤ教の会堂やキリスト教の教会で朗読される事が、唯一、庶民が聖書に触れる機会だつた時代に生まれたものでした。
 日本の宗教も、「理屈が好きな宗教」と「理屈でない部分を重視する宗教」の二つに分かれるかもしれません。私の主観ですが、前者は新しい宗教に多いやうな気がします。

宗教「論」を語るか、「信仰」を語るか

 宗教について語るとなると、「宗教論」といふ形式で語るのが得意な人がゐると思へば、「信仰について語るのは良いけど、小難しい理屈をこねた宗教『論』なんてものは無価値極まりない」と主張する人も一部にゐます。

いはゆる「カルト宗教がらみの事件」とされるものは「宗教の内部の問題」なのか、それとも「宗教とは関係ない、人間の問題」なのか

 地下鉄サリン事件が起こつて数年の間は、「宗教」イコール「怖い」といふ印象で語られる事も多かつたものです。そして、このやうな事件は一般には「宗教組織が起こした問題」と考へてゐる人が多数派でせう。
 一方、この種の事件を「宗教組織が起こした問題」とみなすのは間違ひだ、と主張する人もゐます。「宗教が悪いのではなくて人間が悪いのだ」、と言ひます。意外なことに、そのやうな主張は、世間でいふ新興宗教の類の信者といふよりも、伝統的宗教を擁護する立場の人から聞く事が多いやうに思ひます。
 もちろん、「宗教組織が起こした問題」だと主張する人も「宗教全体が悪い」とする人はあまりゐません。多くは伝統的な宗教行事に喜んで参加するでせうし、「全てではなくて、一部の宗教が問題を起こしたに過ぎない」と思つてゐます。「学校のいぢめ問題の指摘」や「校内暴力の対策運動」は「学校を一方的に悪者扱ひしてゐる」わけでも「学校教育の反対運動」といふわけでもないのと同じです。
 ところが、いくらフォローしたところで、「『宗教組織の事件』とみなすのは間違ひだ」派は納得しません。「宗教組織が起こした問題」といふ言葉は、「宗教全体に対する中傷」であるかのやうにみなし、「宗教を悪者にしないでくれ」と繰り返すのです。

宗教に「騙される」事はあるのか、それとも「信じてしまへばそれが信仰」なのか

 前項とも関聯しますが、一部の宗教が「洗脳やマインドコントロールなど騙すやうな手法を使つて信者を獲得してゐる」と主張する人は多いものですが、その一方で「そんな事を言ふのはをかしい。どんな宗教だらうが、一旦信じたならそれが信仰だし、外部の人が『騙されてゐる』と主張してはいけない」と言う人もゐます。


 今回は、「宗教関係で意見の対立の起こりやすい問題」の一部を取り上げてみました。「宗教の話題は何かと揉める」と敬遠されがちですが、それでも私にとつて敢へて挑戦したいテーマでもあります。見方を変へるなら、「奥の深いテーマ」とも言へますし、それだけ学ぶことも多いものです。