「歴史的仮名遣は明治政府の創作」つて本当?

 皆さんは学校で「仮名文字」や「歴史的仮名遣」の起源について学んだ事でせう。どちらも平安時代の書き方が起源、として習ふ事が多いと思ひます。そして清少納言のやうな平安文学も「歴史的仮名遣」だ、と習つたかもしれません。(もちろん、「歴史的仮名遣」といふ言葉が登場したのは近代になつてからですが、その名前の付く前から同じやうな仮名遣の体系があつたといふ意味です)
 しかし大人の社会では、学校で習ふそんな「常識は間違ひ」で、「歴史的仮名遣は明治政府が創作したもの」であるかのやうに説明する人もゐます。さういふ人の説明によると「歴史的仮名遣とは明治時代以降の仮名遣を指し、江戸時代とか平安時代の仮名遣など、それ以前のものに対しては呼ばない」のださうです。それだけならまだしも、「明治時代より以前は誰々の仮名遣、誰々の仮名遣、といつた別々の仮名遣の体系がバラバラにあつて統一されず、皆思ひ思ひに書いてゐた」といふのです。
 しかし、私はその考へには疑問を抱いてゐます。そして、「正かなづかひ 理論と實踐(じつせん)」に、以下の内容のペーパーを添附しました。

歴史的仮名遣の同人誌」創刊!
 今回の新刊「正かなづかひ 理論と實踐(じつせん)」は、全ページ歴史的仮名遣といふ、何ともすごい同人誌です。
 歴史的仮名遣といふと「古典文学」を想像する人が多いでせう。そして戦前の国語表記の話となると、何故か、所謂(いはゆる)「旧字体」の話ばかりで、「仮名遣」の話は置いてきぼりになる事が多いものです。そこで、今回は敢へて「現代文の歴史的仮名遣」にスポットを当ててみました。
 「当用漢字」「現代かなづかい」に始まる、戦後の国語改革を支持する権威者たちは、国語の歴史を分断しようとしてきました。なるほど、「歴史的仮名遣」は滅んではゐません。しかし、古典文学といふ「居住区」に「隔離」して、云はば「生殺し」にしてきたのです。我々の時代の言葉も歴史的仮名遣で書けるのだといふ事は、忘れられさうになつてゐます。加へて、仮名遣はあたかも国家権力や肩書きのある者しか定められないやうにみなし、約千年間「仮名遣の暗黙の決まりごと(デファクト・スタンダード)」を模索したり守つてきた先人達の努力を無視し、「歴史的仮名遣は明治政府が決めたもので、たつた百数十年の歴史しかなく、それ以前は仮名遣は混乱してゐた」とさへ主張する人もゐます(その割に平仮名は変体仮名廃止の明治でなく平安時代生れと言ふ)。
 残念ながら、歴史的仮名遣が国家標準の正書法として復興する事は、今のところ難しいでせう。一般的な誤解と異なり、平和的な右派政治団体も、暴力的な所謂(いはゆる)「右翼」も、正字正かな(所謂(いはゆる)旧字旧かな)の復権に組織として取り組む所はまづ有りませんし、ある右派雑誌さへ「旧字体」での投稿を迷惑がつたりと、国語問題では一寸(ちよつと)頼りなささうです。
 ですから、政治的運動で我が国の国語を改革する事を目指す代りに、まづ個人的・民間レヴェルで歴史的仮名遣の伝統を守ることは出来ないかと考へました。特定の政治思想を宣伝するのではなく、むしろ思想的背景や、国語に関する意見さへ細かい部分で異なる様々な人が、この同人誌に集まりました。是非ともお読みいたゞければ幸ひです。

 大抵の言語の書き言葉は、当初は発音を書き写すだけであつても、年を経ると、次第に、話し言葉と違った独特の規則が出来上がつてきます。英語やフランス語等の綴りを見ても、全くの発音記号的ではなく、同じ発音でも意味によって綴りが違つたり、文法規則に沿つた綴りだつたり、綴りに昔の発音の名残があつたりといつた具合です。
 それは日本語も同じことで、「必ずしも発音通りではなく、文法規則や言葉の意味によって仮名を選ぶ」「昔の文献を書き言葉の規則の手本とする」といった暗黙の諒解、「不文律」が、日本語を書く人々の間で自然に生まれていつた、といふのが実態に近いのではないか、そして、その「不文律」を明文化してまとめたのが、藤原定家や契沖や明治政府ではないか、といふのが私の考へです。実際、藤原定家も契沖も明治政府も、「仮名遣を一から創造した」のではなく、古来から実際にあつた仮名遣の用例などを元に、法則をまとめたに過ぎません。その「まとめる」にも、仮名遣が「完全に混乱」してゐたのなら、きつと定家や契沖ですら匙を投げてゐたでせうが、幸ひ、そんなことはありませんでした。また、定家仮名遣と契沖仮名遣が違ふといつてもごく細かな部分の問題ですし、「発音だけではなく文法規則や言葉の意味によつて仮名を選ぶ」といふ大原則はそもそも同じです。
 あたかも「藤原定家と契沖と明治政府の仮名遣は全くの別物」であるかのやうに完全に分けて扱つたり、「江戸時代に誤つた仮名遣で書く人も少くなかつた」事自体は事実にしろ、それを針小棒大に騒ぎ立てるのは、「歴史的仮名遣には長い歴史などなくて混乱してゐた」かのやうに見せかけて、仮名遣の歴史を「分断」してゐるやうに見えます。これは「歴史的に見ても混乱してゐた歴史的仮名遣は捨てるべきもので、その混乱を収めるのは、現代の発音に合せた表音的仮名遣だ」といふプロパガンダではないかと思ふのは私だけでせうか。
 加へて、世間では歴史的仮名遣は抑圧の象徴、現代かなづかいは自由の象徴であるかのやうに語る人もゐますが、実際には逆ではないでせうか。歴史的仮名遣は多くの人の手により千年以上掛かつて釀成された「デファクト・スタンダード」ですが、現代かなづかいは事の起こりからして「公権力が一方的に決めた仮名遣」でした。

参考
復古假名遣
橋本進吉博士著作集3『文字及び假名遣の研究』
歴史的仮名遣は「明治政府の創作」か?