声さらいにご用心 〜Teacher's Side〜

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※この作品は、実話をもとにしながらも、背景を全くの想像で創作したフィクションです。また、名前は仮名です。

合唱部に男の子が欲しい

 それは1984年のこと。私は千葉県木更津市のとある小学校に勤務していた。ある日の昼休み、私は5、6年生の音楽を担当しているW先生に呼び止められた。
「今日の放課後、合唱部のオーディションがあるんだけど、おたくのクラスにいい子はいないかしら」。W先生は話を切り出した。「特に、男の子が欲しいのよね。今、女の子ばっかりでしょう。声も、見た目にしても、もうちょっと男の子がいたらうれしいな、って思うの。それに、男の子の部員にしても、周りが女の子ばっかりじゃなくて、もうちょっと男の子がいた方が心強いでしょう」。
 歌の上手な男の子、歌の好きな男の子、男の子……
 午後の授業中も、私は男の子一人一人の顔を見ながら、どの子が合唱部向けだろうかと考え続けていた。そしてついに、一人に目が留まった。
 押井徳馬君。音楽の授業が大好きで、二部合唱となるとソプラノパートもアルトパートも自在に歌いこなす。その上、普段は真面目で、テストは80点以下の数字をほとんど取ったことななく、100点も珍しくないほど優秀。でも、何だか普通の子供らしさが少し欠けている。そういえば、ゲラゲラ笑いは見ても、本当の笑顔を見たことがない。ちょっと気難しいところがあって、他のクラスメートとの協調性があまりなくて、独りでさみしそうにしてる。
 よし、この子に決めた、と思った。押井君が合唱部に入れば、同じ音楽好きな仲間ができて、もっと幸せになれるんじゃないか。押井君の得意分野をうまく伸ばしつつ、苦手とする協調性も伸ばせる、一挙両得だ。何て良い考えなんだろう。


 早速、帰りの会で、私は押井君を指名した。「今日の放課後、合唱部のオーディションがあります。入部したい人は音楽室に集まってください。それから、押井君も合唱部に入るので、音楽室に来てください」。
 何て無理矢理な、と思うかもしれない。でも、引っ込み思案の押井君は、こうでもしないと動きそうになかった。彼にはチャンスが必要だ。とにかく首に縄を付けてでも連れて行ってオーディションを受けさせて、それから考えてもらったっていい。
 しかし、押井君は、首を横に振った。それも、弱々しくではなく、ぶんぶんと音が聞こえそうなくらいに激しく強く。こんな反応も予想していたけれど、「嫌です」と、まさかこんなに強く言われたのは、正直言ってショックだった。
 どうして、このせっかくのチャンスを逃そうとするのだろう。余計なお節介かもしれないけど、このチャンスを捉えることで、彼はもっと成長できるかもしれないというのに。
 「それでは、放課後、押井君を音楽室に連れていってあげてください」。こうなったら、強硬手段しかなかった。私は、オーディションを受けるつもりでいた女子2、3人を指さしながら、こう指示した。彼女たちは、互いにひそひそ話をした後、私の目を見て小さくうなずいた。何を言わんとしていたのか、すぐわかったようだ。
 押井君は、新しい可能性へと羽ばたこうとしている。私はその期待で胸がいっぱいだった。

牛に引かれて何とやら

 ところが、帰りの会の結びの「さようなら」が終わるや否や、押井君は一目散に教室を出て行った。
 「あっ!逃げた!」女子が声を上げた。私が追いかけようと思った瞬間、数人の女子が、押井君のすぐ後を追い始めた。
 私の指名した子ばかりではなく、5、6人はいただろうか。廊下や階段を駆けていき、必死になって逃げる押井君の後を追いかけていった。
 遠くから、叫び声が聞こえてくる。押井君を捕まえようとする女子達の声と、抵抗し続けている押井君の声。現場に近付いてみると、押井君は両手両足をを捕まえられ、それでも手足をばたばたさせたり大声を上げて抵抗しながらも、結局は音楽室の方向へと仰向けの状態で引きずられていった。さすが、うちのクラスの女子は頼もしい。
 やっとの思いで押井君を音楽室まで連れていくと、彼は観念したのか、黙って椅子に座って泣いていた。

逃げないで!

 しばらくすると、W先生がやって来て、合唱部入部希望者への説明が始まった。W先生は押井君をどんな子に育ててくれるかしら。ソロパートを、魂を揺さぶるほど澄んだボーイソプラノで歌う押井君かしら。それとも、指揮者としてみんなを引っ張ってくれる頼もしい押井君かしら。そんな来るべき未来を空想しつつ、私もW先生の説明に耳を傾けていた。
 合唱部は半端な気持ちではなくて真剣にやりたい人だけ入って欲しい、そして放課後や土日の練習や発表会もあるので参加できる事が条件、その条件にあてはまらない人は帰ってもいい、という説明まで来た時だった。ふと、後ろを振り返った押井君と目が合った。
 でも、ここで逃げられては困る。とにかく、彼には絶対にこのチャンスを捉えてほしかった。私は「絶対逃げちゃだめよ!」とばかりに、厳しい目つきでにらみ返した。

澄んだボーイソプラノの原石

 オーディションの課題曲は、「花のメルヘン」。私達が子供の頃、ダーク・ダックスの歌をよくテレビやレコードで聴いた、懐かしい曲で、音楽の時間にも子供達によく教えていた。
 入部希望者は、指名されると、代わる代わるピアノの前に来て、その歌を歌っていった。音程を取るのがちょっと危なっかしい子もいれば、声の質にちょっとくせのある子もいた。そして、思わず聞き惚れてしまうほど上手な子もいた。このダイヤの原石がこれから磨かれていったら、どんなに素晴らしいことだろう。
 そしてとうとう、押井君の番が回ってきた。顔も目も真っ赤にして、これまでずっと泣いてました、と言わんばかりの、ぐちゃぐちゃな顔を見て、W先生は怪訝そうな顔をした。そして私に尋ねた。「どうして泣いてるの?」
 「合唱部に入りなさいって言ったら、べそかいてるんですよ」。そう言うしかなかった。でも、今日は泣いていても、いつかこの親切、というか大きなお節介の意味を、わかって欲しかった。
 「そういえば!」まだ泣きぐせが少し残っている押井君の様子を見て、一つの不安が頭をもたげた。そして、彼の耳元で囁いた。「わざと下手に歌ったりしたら、承知しないからね!」
 「昔むかし……」押井君は涙をふくと、口を開けて歌い始めた。少し乱れた呼吸に時折邪魔されつつも、その声はまさに澄んだボーイソプラノの原石とでも言うべきものだった。細かい部分では惜しいところもあるけど、磨きがいがある。これで合唱部に入りたくないなんて、すごくもったいない、と思った。
 何はともあれ、オーディションは終わった。あとはW先生が評価して、結果を子供達に連絡するだけだった。

埋もれた才能

 子供達のいなくなった音楽室で、W先生はさっきの試験の評価をしながら、私に話しかけてきた。
 「おたくのクラスの男の子、押井君って言ったっけ、合格よ。あの子、いい声じゃない」。私は我が意を得たりと、うんうん、と強くうなずいた。
 「でも、ちょっと気になる事があるのよね」、と、W先生はつぶやいた。「せっかくいい声でも、あとは本人のやる気なんだけど……そんなに合唱が嫌なのかしら?」
 私は簡単に今日のいきさつを説明した。押井君は引っ込み思案なところがあるから、ここは誰かが後押ししてあげなくては、せっかくの彼の才能も花開かずに終わってしまって、すごくもったいない。だから自分は、押井君に、とにかく今日のオーディションを受けなさいと言ったけど、聞いてくれなかった、と。
 「困ったわね」、W先生は答えた。「私も本音を言うと、押井君に是非合唱部に入ってもらいたいと思うのよ。でも、本人が嫌だと言ってる限りは、無理に入って欲しくない。嫌々入部して嫌々歌っても、かえって良くないし、合唱部員の間の士気も下がるでしょう」。確かに、それはそうかもしれない。
 「あとは保護者と相談してみる事かしら」W先生は、こう提案した。もう日もとっくに暮れて、押井君も家に着いているだろう。今日押井君を無理矢理連れ出してオーディションを受けさせた事で、保護者からあれこれ言われたらどうしよう。私はにわかに不安になりつつも、ダイヤルを回した。


 電話に出たのは母親だった。「息子は、合唱部に入りたくないのに、クラスの女子達に無理矢理音楽室に連れてかれて試験を受けさせられたと言ってたんですが」。もう話はすっかり聞いていたらしかった。その後に続く言葉を想像して、思わず身構えた。
 「ご心配おかけして申し訳ありません。結果から言うと、合格なんです。でも、一つ問題があって、確認のお電話をしたのですが」。そして、W先生と話し合った結果、あとは本人が入りたいと言えば合唱部に入れる旨、説明した。
 「そうですか。でも、息子が音楽が好きな事に目を留めてくださったり、その能力を伸ばしたいと思ってくださった事には感謝します」。あまりにも意外な返事だった。普通、教師に苦情を言う親は、こんな事は絶対に言わない。
 「ただ、息子も無理矢理連れて行かれた事でショックを受けておりまして……」確かに、言われてみれば、少し行き過ぎた部分もあったかもしれない。「それで息子がやりたくないと言っている以上は、親としても無理には……」
 残念ながら、結局、やんわりとではあるが断られてしまった。


 結局、押井君は合唱部には入部する事なく、4年生が終わった。
 あの子は合唱部に入っていたり、声楽家としての道を進んでいたりしたら、きっと大いに人生が変わっていたに違いない、と思う。でも、今だからやっと思えるようになったけれど、それが彼らしいところなのだ。彼はむしろ理数系の科目が特に好きだったから、そういう研究者になっていたりするだろうか。


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