人間を「子を産む道具」に貶める「命のバトンを渡す義務」論

未婚化・晩婚化そのものについて、現在の自分があるのは、やはり親が結婚してくださったからいるんです。だから、自分のことだけ考えて、現在、多様な生活パターンがあって、独身、DINKSもいいんだというふうに認めていきますと、将来の子孫はどうなっていくのか。「種」の保存というのは、「個と種」の関係。ですから、今、権利の主張というのは「個」の権利の主張ばかりで、人権、人権と言うけれども、個人の自分の人権ばかり言って、将来の人間の人権といいますか、種の保存ということをちっとも考えていない人も多いのではないかということです。
(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/12/chuuou/gijiroku/001/990601.htm)

 生命の誕生はしばしば「命のバトン」に喩えられます。確かに、適切な喩えです。私は幼い頃は赤ん坊嫌いでしたが、後に赤ん坊の子守をするようになってから意見が変わりました。赤ん坊の世話には尋常でないほど手間がかかって疲れるけれども、とにかく細かい理屈抜きで何とも可愛いし、その成長していく姿、そしてこのようにして命が受け継がれていく様を見るのは本当に神秘を感じるものです。
 しかし、この「命のバトン」とは、単なる比喩であることを決して忘れてはなりません。人間は木やプラスチックで出来たバトンと違い、一個の人格と知性を持った生身の人間です。
 それなのに、この比喩を使う人の中には、生身の人間を単なる道具、「命のバトン製造器」に貶めてしまっている人も一部にいるのではないでしょうか。私にはそんな気がしてなりません。


 「命のバトンは次の世代に渡されるためにある。つまり生命の存続こそが人間の生きている目的であり、その義務を果たさない人間は無責任だ」。にわかに少子化が社会問題として叫ばれるようになってから、たとえばこんな主張を何度聞いたことでしょう。とは言え、上に挙げた「少子化と教育に関する小委員会」の議事録での意見は、まだ穏便な方であり、「次世代に命のバトンを渡せない人間は落伍者だ」とか「そしてそんな人間が淘汰されて強い種が生き残るのは人類にとって益になる」などと、優生学的意見を述べる人も少なくありません。

少子化危機を煽る“ヒトラーの末裔たち”*1

 まず最初に、優生学的な意見について言うなら、率直に断言します。これは差別発言であり、ヒトラーのそれを彷彿させる危険思想です。
 「次世代に命のバトンを渡せない人間は落伍者だ」などという暴言、この意見が本当に正しいと信じているのなら、それでは、不妊症の女性に、かつてハンセン病施設にいた元患者に、配偶者のいない障害者に堂々と言えますか*2。そんな相手なら遠慮するのに、大人社会の弱者たる若者が相手なら許されるのですか。ブサイクが相手なら許されるのですか。*3


 人がいくら女性や子供や障害者といった弱者をいたわっていたところで、こういう別の形での弱い者いじめをしているなら、「セクハラ発言や差別発言をやめよう」とか「ロリコンコンテンツは有害」などと言って他人の心を裁きながら、自分の心は優生学に基づいた差別的思想で汚染されているなら、それは偽善にしか見えません。

そんなに動物的生存競争が好きなら、お前、動物になれ

 確かに、動物の世界は弱肉強食であり、かたわの子鹿は逃げられずにライオンに喰われて子孫を残せない、異性を獲得できなかった雄は子孫を残せない、そして弱い個体が滅んで強い個体が生き残る、これはある意味事実です。しかし、人間もそれを見倣えとなると、「ハァ?なに寝言を言ってるんだ?」と言いたくなります。「そんなに動物の本能が好きだったら、お前、人間止めて動物になれ」ってね。
 でも、「弱い個体が滅んで強い個体が生き残る」って事自体も、どうやら怪しい。「“強い個体”がそんなにいいんなら、お前、恐竜になれ。氷河期に絶滅するけどな」と言いたくなります。霊長類でいうなら、アウストラロピテクス北京原人もクロマニオン人も絶滅して、“より劣った形態”であるはずのチンパンジーやゴリラやオランウータンは生き残っていますね。
 日本をはじめとした先進国の少子化問題は、ただ単に子供の数を増やしただけで簡単に解決する問題ではないというのが私の持論ですが、それは、氷河期にたとえ恐竜の数が激増したところで、絶滅は免れなかっただろう事と同じです。


 閑話休題。人間の人間たるゆえんとは、動物と違って本能だけで生きていないところにあります。動物は、脳という“ROM”のプログラム通り、生まれ育って、餌を喰って、繁殖して、ただ種の生存だけを目的として生きているだけの存在ですが、人間は動物と違って知性や感情、とりわけ「愛」の発達した生物です。動物とは違って、時には生存競争に反してでも利他的な精神を他の個体に示すという“奇妙”とも思える行動をする生き物なのです。
 第一、人間は「自分の人生の目的とは何だろう」と悩むところからして、他の動物とは大いに異なります。「ただ生まれ育って、うまい飯を毎日喰って、結婚して子供が生まれて、それだけが人生の目的だろうか」なんて、他の動物は悩みませんが、人間は悩みます。「それだけ」ではないものとは、何でしょう。実は、動物と違って人間だけは、後の世代に、「命のバトン」以外のものを残せるのです。

人間にだけ後の世代に残せる、「命のバトン」以外のもの

 皆さんの中に、作曲家のベートーヴェンをご存知でない方はほとんどいないと思います。この人は生涯独身であり、動物的に見るなら、自分のDNAを後の世代に残せなかった“弱い個体”ですが、ほとんどの人はそうみなすどころか、むしろ「偉大な音楽家」とほめたたえる事でしょう。
 それは、ベートーヴェンは自分のDNAは後の世代に残せなかったものの、たくさんの優れた音楽作品を残したからです。*4
 他の分野についても同じ事が言えます。一番よくわかる例が宗教家です。昔も今も仏教の僧侶には有名無名を問わず独身者が多いですし、イエス・キリストも生涯独身だったのは有名です。しかし、彼らは「命のバトン」をつなげられなかった“落伍者”でしょうか。彼らが後の世代に与えた影響を考えると、そうでない事は明らかです。他にも、樋口一葉宮沢賢治の残した文学作品、小津安二郎の残した映画など、枚挙にいとまがありません。
 これらの人々は、たとえ自分が「命のバトン」を渡すことができなくとも、間接的な方法で後の世代に多大なる貢献をしてきた人物です。つまり、後の世代の人々に喜びや活力や生きる希望を与え、人生の道しるべを提示し、結果として一人や二人ではなく数百万、数十億の子供達を間接的に“育てて”きたのですから。
 一介のサラリーマンに過ぎない人でさえも、後の世代に残せる「命のバトン」以外のものがある事は、NHKでかつて放映されていた「プロジェクトX」を見れば明白です。


 誤解のないように付け加えておくなら、私は「命のバトンを渡す」事の重要性を軽視しているわけではありませんし、それが人間にとって最も大切な仕事の一つであることには同意します。しかし、それ「だけ」が人生の唯一の目的であり、その機会を逸した人は人生の落伍者であるかのような意見には、同意するわけにはいきません。それはなぜかというと、人間は動物ではなくて人間だからです。
 人間の人間性を無視して、まるで卵を毎日ポンポン産むブロイラーのような「子を産む道具」のようにみなすのは、残酷な事です。皇室に長い事「命のバトン」たる男児がお生まれにならなかった事でひどく思い悩まれた雅子妃殿下の事を考えると、特にそう思います。

「命のバトン」を渡せない人にも出来ること

 世間は「命のバトンを渡す」役に残念ながらあずかる事のできない人の事を、今後少子高齢化が進むにつれて、いよいよ悪しざまに言うことでしょう。
 しかし、私も含めそんな人は役立たずの用無しということでしょうか。そんな事はありません。もしその機会があるなら、子守や大変な仕事を手伝う事や、育児を支援するシステムを構築する事を含め、その大役を担っている人達の荷を軽くしましょう。私自身もかつて微力ながら少し行ってきましたが、これは、その“命のリレー”に間接的に協力する事になるのです。

*1:もちろん比喩的な意味です。

*2:これは飽くまでも反語表現であって、たとえ冗談のつもりでも決して実行に移してはいけません。念のため釘をさしておきます。

*3:中には「そう言われたって仕方ないのでは。恋愛しようという努力が足りないのがいけない。もっと積極的にアタックすれば自然と道が開ける」などとおっしゃる人もいますが、これは、率直に言って間違いです。現に恋愛している人でさえも結婚意欲が足りなかったり、結婚はしていても子供を産むことに消極的な夫婦も増えている事からわかりますが、モテナイ君たちが電車男みたいに恋愛さえ始めれば後は何とかなるようなものでは決してありません。それに、「もっと積極的にアタックすれば自然と道が開ける」なんて、ロマンス小説の読み過ぎではありませんか。現実は時に残酷なものです。あなたはあまり美貌に恵まれない異性に積極的にアタックされたら、付き合いたいと思うでしょうか。下手すればストーカー扱いで、むしろ藪蛇ですから、この提案も、動機はいいのですが、必ずしも正しいとは言えません。

*4:2006/08/11補足:後で調べて知ったのですが、私が書いたのとは反対に、ベートーヴェンには子供がいたという説もあります。ジョセフィーヌ・ブルンスヴィックとは恋仲で、彼女の子供はベートーヴェンとの間に生まれた子供だったのではないかという説です。ただし、この説が本当に正しいかどうかは不明です。