おたくの社会的孤立が煽られた平成初期

http://d.hatena.ne.jp/Hayashida/20060531/1149052395

# Hayashida 『いや、昔から「オタク」はキモかったんだよ。ただそれを他人から指摘されて、「マンガが好きならオタクっていうなら皆マンガ読んでるじゃないか!1億総オタクだ!」という大欺瞞をはびこらせたのがオタキング最大の罪でな。
昔からあるオタクの奇妙さ「世間と折り合いを付けようとしない困ったチャン」というイメージを薄めるために、アレもオタク、コレもオタク、とオタクの範疇を勝手に広げてきたわけよ。で、その「世間と折り合いを付けないオタク」の最も先鋭化した部分がオウム真理教だったわけ。ということで、最近話題になった某マーケティングアドバイザーの主張を想起する人も居るかもしれないが、まあそういうこと。
んで、意図的に拡大解釈された「オタク」像を基準に物事を考える人は俺のいってる事は暴論に聞こえるだろうよ。
だが、それでは宮崎勤やフィギュアを買ってくれないからといって自宅に火をつけた奴や、父親を刺殺して「自分の好きな秋葉原で捕まりたかった」と万世橋署に自首した連中が抱えていた「オタクの病理」に向き合うことは出来ないわけさね。』 (2006/05/31 15:40)


 いや、違うと思うぞ。おたくの範疇を広げて「あれもおたく、これもおたく」と言うようになったのは一般人が先ではないだろうか。
 昭和時代は、若者がただ単純に漫画マニア、アニメマニア、パソコンマニアなどというだけで非難される事も、無くもなかったが、それは「時間や金を掛け過ぎ」とか「アニメなんて子供っぽい」とかその程度であって、犯罪者予備軍扱いまではされなかったものである。
 ところが、平成元年にあの忌々しい宮崎事件が起こって、突然マニアの株価が暴落した。マニアという存在自体が社会悪であるかのように言われるようになり、たとえ迷惑な行動はしてないし、ロリコンコンテンツも大嫌いという人間であっても、漫画やアニメやパソコン等にちょっと詳しいというだけで、一般人は彼らに勝手におたくのレッテルを貼るようになった。
 そして、やれ根暗だの、気持ち悪いだの、幼女をさらって殺したりする奴の同類だの、いっぺん死んだ方がいいだの、この地球上に生きてる価値はないだの、とにかく大谷昭宏の「フィギュア萌え族」うんぬんの妄言なんてまだ可愛く思えるくらい、とにかく酷い事をマスコミからも周囲の人間からも言われ続けてきたのである。


 その時代は、いわゆるおたく趣味を持つ事そのものが反社会的とみなされる傾向が一般に見られていた。自分はもちろん幼女をさらう事なんて考えすらしない(むしろ憎悪している)し、ロリコンですらない。身なりや清潔さや周囲の空気を読む事などにもちゃんと気を付けている。それでも、「宮崎勤みたいなおたく族の同類」などと呼ばれて、友人と縁を切られたり、おたく趣味を捨てろ、さもなくば勘当だと家族からの圧力を受けたり、そんな事もよく見られたものである。
 だからその時代、「おたく趣味を持つ事」と「世間と折り合いを付ける事」とは、両立し得なかった。たとえ世間と折り合いを付けながらおたく趣味を楽しもうにも、世間がそれを認めようとしなかったから、多かれ少なかれ摩擦が起こった。おたく趣味を持つ事自体が、「宮崎勤のような反社会的な奴らの同類になる」事で、日本社会から排除すべき事、とみなされていたのである。
 当時「おたく」と呼ばれていた人達は、世間から除け者にされてしまった人か、世間から除け者にされる覚悟で自分の信念を貫いた人か、周囲に良き理解者がいた人かのどれかであった。


 この時代、一般人も一部のマニアも、マニアを「おたく」と呼ぶようになってきたが、意図はそれぞれまるで異なっていた。一般人は「おたく」という言葉をイメージダウンの手段として、一部のおたくは逆にイメージアップの手段として利用してきた。
 冒頭の文章の《昔からあるオタクの奇妙さ「世間と折り合いを付けようとしない困ったチャン」というイメージを薄めるために、アレもオタク、コレもオタク、とオタクの範疇を勝手に広げてきた》というのは、一般人については「オタクの範疇を勝手に広げてきた」は正しいが「イメージを薄めるために」の部分はまったく正反対である。一般人にとっておたくとは、「世間と折り合いを付けようとしない困ったチャン」というイメージのままであり続けた。容姿が気に入らないとか内気だとか自分の理解できない趣味を持ってるなどを「反社会的」イメージと結び付けていじめるための手段にされてきた。
 しかし、おたく陣営について言うなら、特に「イメージを薄めるために」の部分はある意味正しい。「おたく」という言葉のイメージアップを図り、おたく趣味は知的で高尚な趣味で、何も恥ずかしい事はないという考えを広めてきた。これは正しいか正しくないかというと、はっきり線引きできる問題ではないように思う。自分に貼られた不当な悪いレッテルをバネにして頑張るとか、そのレッテルを皮肉るとか、そういう目的なら、状況によっては有りではないかと個人的には思う。
 ただし、その「おたく」という言葉を、人を不当に貶めて偏り見るために悪用したり、逆に被害者ぶって自分のやましい部分を正当化する為に悪用するのは、問題ある使い方だろう。
 誰かがおたく趣味を持ってるか否かとか、誰かがおたくと呼ばれてるかどうか否かによって、自動的に社会不適合者かどうかが決まるわけではない。ある人をおたくだの何だのと言って侮蔑する人が、必ずしも善人とは限らないし、そういう人にまで受け入れられようと必死になる必要も全然ない。おたくかどうか以前の問題として、人間としてまっとうに生きること。この方がはるかに重要なことである。