「舊約聖書の神は怒りと憎しみと嫉妬の神、新約聖書の神は愛の神」?

 結論から先に言ふが、それは間違ひである。新約聖書の神も舊約と同じく、怒りと憎しみと嫉妬の神である。他人の受け賣りで上のような文句を言ふ人は、「默示録」だつて、「ハルマゲドン」だつて、舊約ではなく新約にあることを、すつかり忘れて仕舞つてゐる。兩者がどのやうな物であるかに關しては敢へて字數を費やさぬが、この二つの言葉が世界中の人々の恐ろしい想像をかき立てて來たといふ事實を述べるだけで十分だらう。

 いや四福音書ですら、神の怒りを象徴する事柄があちこちに出て來る。如何にもイエス・キリストは慈愛に滿ちたる神の御子と思へるだらう、しかしイエスはパリサイ人(今風に言ふならユダヤ教原理主義者)達を齒に衣着せ
ぬ言葉で激しく糺彈したし、「宮清め」の逸話も決して忘れてはならない。「イエス宮に入り、その内なる凡ての賣買する者を逐ひいだし、兩替する者の臺(だい)・鴿(はと)を賣る者の腰掛を倒して言ひ給ふ、『「わが家は祈の家と稱(とな)へられるべし」と録(しる)されたるに汝らは之を強盜の巣となす』」(マタイ傳21:12,3)。しかし、これだけでもほんの一例に過ぎぬ。

 從つて、舊約の神と新約の神の性格は、本質的に變つてゐない。大體、「愛の神が怒り、憎み、嫉妬する筈が無い」といふのが抑(そもそ)もの誤りである。人間でも、自分の結婚相手が浮氣したとしたら、其の事に對し怒らず嫉妬もせぬ人を見附ける方が難しいだらう。舊約聖書の出エジプト記20章5節に「我ヱホバ 汝の神は嫉む神なり」と記されてゐるやうな、一神教の「嫉妬する神」とは、これに似た概念だと説明すれば、一般的日本人にも理解し易いだらうか。つまり、他の神に浮氣する事は不倫のやうなものといふ概念が一神教にはある。理由もなく氣紛れで怒り、憎しみ、嫉妬するといふ意味ではなく、愛するが故に、その愛を妨げるものがあるなら怒り、憎しみ、嫉妬するのである。

 また、古今の宗教戰爭なるものも、單に敵國憎しの感情からではなく、自分の信ずる神に對する愛情と、その愛を妨げる異教に對する憎しみと嫉妬といふ圖式があるからこそ、雙方とも眞劍になるし、一筋繩で解決しない問題なのである。

 結論として、一方は新約に、一方は舊約に表れてゐると一般に思はれてゐる、その「愛」と「憎しみ」とは、實際には表裏一體のの關係なのだ。インドのネール元首相は「愛は平和ではない。愛は戰ひである」といふ言葉を殘したが、愛とは其程に激しいものである。愛が深まれば深まる程、その愛を裏切るやうな行爲に對して餘計に憎しみが深まるといふのは、舊約の世界でも新約の世界でも全く共通の約束事である。