“フリーソフトがソフトウェア産業を滅ぼす”?(その2)

 前回は、フリーソフトウェアの定義、およびフリーソフトウェア共産主義という主張への反論を述べた。今回からは、LightCone氏によるフリーソフトがソフトウェア産業を滅ぼすという文章に、数学でいう“補助線”を追加しながら、問題の根幹を指摘することにしよう。

成功の見返り=ゼニなのか

 まず筆者は、一般競争原理について、

競争原理が望ましい点は、競争を行うことによって、よい商品や何らかの結果が生まれてくることである。

しかしこのとき、「競争に勝ったもの」が、何らかの「利益」を受けることは、通常、暗黙の前提になっている。

 と述べている。果たしてこの「利益」とは何だろうか。文章はこう続く。

フリーソフトでも(激しい)競争は行われているが、フリーソフトを公開している側に取っては、基本的に何の金銭的な収入も得られていない。つまり、どんなに競争の勝利者になったとしても、何の利益も受けない可能性も多いのである。



シェアウェアの場合でも、実際には大きな収入にはならない。

よほどヒットしたシェアウェアでない限り、通常のサラリーマンの収入の数パーセントにも及ばないのが現実である。

 要約するなら、「市販ソフトの世界では、成功した企業は金銭収入という見返りが返ってくる。しかしフリーソフトウェアは、たとえ勝者になっても、金銭収入という成功に応じた見返りが返ってこない。」ということになるらしい。

 なるほど、フリーソフトウェアはいくら普及したところで、開発者には一銭の収入にもならない。それは事実である。だがこの文には、大きな見落としがある。それは「成功の見返り=ゼニ」と、一方的に決め付けてしまっていることだ。

 私は、この筆者の息子でなくて本当によかった、と、ほっと胸を撫で下ろしている。「私と妻はこれまで二十年間もお前を育ててきたのだ。この大きな仕事を、保育園の保母さんとか家政婦さんに頼むとしたら、いったい幾らかかるだろう。それに相当する見返りくらい、我々がもらって当然だろう」などと言われながら、「あれもこれも」とソロバンをパチパチはじいて収入の半分くらい平気で持っていかれそうだからだ。まあ、これは冗談として置いといて、果たして、ゼニの見返りなしに何かをすることは、間違っているのだろうか。

 さっきの喩えのように、育児とは必ずしもゼニの見返りが期待できるとは限らない。子供を育てている親らに「あなたは子供を、将来の銭儲けの投資にならなくとも、ゼニの見返りがなくとも育てるのか」と尋ねてみるがよい。そんな質問など、私にはとてもできない。「子供を育てるのはゼニのためだ」などと言う人がいたら、卑しい守銭奴だとして人格を疑われるに決まっている。

 また、お隣のおばさんに家庭菜園で採れた胡瓜や茄子を只でもらったら、こう言うがいい、「ありがとう。でもどんなに畑が豊作だとしても、只で配っては何も得しないよ。あんた、ひょっとして単なる暇人?」。ロックバンドを組んで、休日に演奏会を開いている若者には、こう言うがいい、「もったいない。時間も能力ももったいない。どうして一銭にもならないことにこう情熱を費やすのか、私にはわからん」。俳句や短歌の句会や歌会を開き、同人誌を発行しているおじいちゃんには、こう言うがいい、「俳句や短歌の同人誌?いくら儲かるの?えっ?大した収入にはならないって?そんなこと止めて、同じ本作るならもっと儲かる本作ればいいのに」。私には―いや、常識的な人間であるなら誰も―そんなことはとても言えない。

 それでも親は愛をもって子供を育てるし、お隣のおばさんは一銭にもならない野菜を自分におすそわけしてくれるし、ロックバンドを組んでいる若者は私財をなげうって演奏会を開くし、おじいちゃんは同人誌を実費に近い値段で発行する。それも自発的に。たとえゼニがなくとも、これらの活動には原動力があるし、ゼニでない見返りもある。クレジットカード会社のCMではないが、子供の笑顔も、お隣さんがおいしそうに野菜を食べてくれる笑顔も、観客のアンコールの声も、同人誌を作り終えた達成感も、pricelessである。ゼニのことを考えるのは値札の付いてるもので十分だ。

フリーソフトウェアの労働と共産主義国の労働は異なる

 このことを考えると、フリーソフトウェア製作の労働と、共産主義国の農場や工場などでの労働とは、意味が異なることが自ずと見えてくる。後者は、まさにロシア語でいう「ノルマ」である。その労働が好きか嫌いかにかかわりなく、決められた労働をしなくてはならない。その上、筆者の指摘どおり、働きの出来に応じた報酬の差が付かないため、とかく義務感からの労働になりがちで、労働意欲を喪失し、その結果、“よいアウトプットが生まれてこない”、そして国は貧しくなっていく。

 では前者、つまりフリーソフトウェアは果たして「ノルマ」だろうか。わざわざ答えを書くまでもない。共産党に指示されたから働くのではなく、自分のやりたいことをやっているに過ぎない。つまり趣味だからこそ、長続きするものだ。「仕事でプログラムを組むのは苦痛だが、趣味のプログラミングは楽しい」と感想を述べる人は、あまりにも多い。趣味だからこそ意欲が沸くというのは、何もプログラミングの世界に限ったことではない。身近な例でいうなら、夏休みの読書感想文の宿題、あれほど嫌なノルマはないだろう。いい文章を書けば国語の成績が上がるとしても、原稿用紙に既定の枚数分文字を埋めるのが、やっとの思いであることに変わりはない。ところが、読書感想文の宿題が苦手な女の子も、交換日記となると大学ノートの三ページや四ページは平気で消費するし、それが何ヶ月も何年も続くのだ。交換日記を書けば国語の成績が上がるとかゼニ儲けになるわけでもない、しかし楽しい、そして楽しいから長続きするのは明らかだ。
 閑話休題。それに、たとえ労働意欲を失ったところで、一年でも二年でも休めばいいだけの話である。休んだから誰かに迷惑をかけるということもない。使う身からしても、自分が手間をかけて作ったのでも金を出して買ったのでもないお気に入りのソフトを、ずうずうしくも只で使わせてもらっていた身分であるから、開発停止されたフリーソフトウェアに愚痴をこぼすとは、なんと厚かましいことだろう。それにソースが公開されているなら、自分の気に入らない部分の修正も決して不可能ではないのだ。